2025/09/28
 Xでフォローしているある方が、平尾昌宏氏とアダム・タカハシ氏の対談イベントの件を書かれていて、その中に「一番笑ったのはアダムタカハシさんの「スピノザはスピノザ学者よりも腰が低い」」とあった。興味をそそられ、対談アーカイブ「ふだんづかいの哲学」を見てみた。平尾氏はスピノザ全集第6巻の「往復書簡集」を翻訳されている先生。アダム・タカハシ氏はスピノザの手紙を改めて読まれて、相手に対してとても丁寧に心を込めて返信しているのでそういう発言が出たようだ。とても愉快なコメントで私もクスッと笑ってしまった。平尾先生は『エチカ』をどう読むかについての本を書かれたとのことで、恐らく来年出版されるのだろうな。楽しみ!!  平尾先生によると、スピノザ全集の企画はそもそも50年前くらいからあって、紆余曲折、5回出版社が変わって最終的に岩波書店になったということ。これまたすごいエピソードだ。「往復書簡集」の翻訳者は平尾先生と河合徳治氏。河合氏はお亡くなりになっているが、それくらい長い期間にわたって構想されていた全集であるがゆえに、そういうこともあるのだろう。河合徳治氏の『スピノザ『エチカ』』(晃洋書房)という『エチカ』についての概説書はコンパクトな本で、そうであるがゆえにか、『エチカ』の肝心要なところが凝縮されて、それが抜群の切れ味、かつ、いきのいい文体で書かれており、何度も読み返す。凝縮されているがゆえに立ち止まって考えることも多い。  このブログのタイトルは大仰なんだけれど、河合氏の本の序章の最後の文が「いよいよ『エチカ』の解題をその冒頭の諸定義から始めるが、それを読み解くカギとなる概念はもちろん<無限なるもの>(本では<>ではなくここに傍点)である。」とある。「もちろん」!ですと!。ここから背筋がピンと伸びる。ロケット発射台に点火されたような、ジェットコースターが頂点で止まってこれからスタートするような緊張感。スピノザの永遠、無限は、言葉で理解するだけではなく、腑に落ちた!と感じる必要があると思っている。とはいえ、それをよーく考えることがまずは必要。個人的表明ではない定義、公理、定理、証明について、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』の序論最後の文に「証明は不可視なものの表示であり、また自らを表示するものが注ぐ視線である。証明とはそれによってわれわれが知覚する精神の眼であると、スピノザが主張するのは・・・」とある(これまたすごい文章だ)。考えるには言葉も必要だ。定理証明が示すものは、人間の言葉を使用しながら、人間的な視点では語ることのできないものだから、有限な人間が永遠、無限を捉えるにはそういう方法が必要なのだろう。何度も読みつつ腑に落としたい、この永遠と無限というもの。そして腑に落ちたところから見える世界はどんなもんなんだろう。『エチカ』第5部後半はドゥルーズ曰く無限速度となっている、ので眩暈の連続だ。第三種の認識による(私的には、そういう認識によることだろうと思っていて)精神の眼で見ることそのものが諸証明となる・・・。  うーむ、永遠・・・。腑に落ちるのはまだまだ遠い。  ところで、9月25日はグレン・グールドの誕生日ということで、Xである方が、誕生日情報と「off the record/on the record」という映像作品からの一部分を紹介されていた(https://www.youtube.com/watch?v=WqwZC-yLYI4)。これはバッハのパルティータ2番の1楽章目を練習してる風景。途轍もない集中力とテクニック、カメラを全く意識していないグールド。途中に愛犬のあくびシーンが入るのが面白い。鳥肌が立つ映像・・・。これは永遠に残る!この場合の永遠は自分の感動を最大限に表現したものでしかないけど!
2025/07/28
 その昔、ドストエフスキーにはまって『カラマーゾフの兄弟』を新潮文庫で読んだ(と思う)が、最近中公文庫から出たということで改めて読み始める。まだ1巻目だけれど、まるで推理小説みたいだなあ、と思っていた。4巻目の解説が頭木弘樹氏で、それまた楽しみなのあるが、頭木氏が『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(春秋社)を出されていることを知り、また、氏のnoteには「江川卓も、『カラマーゾフの兄弟』を最初に読むときは、ミステリーとして読むのがいい、それも、どんどん飛ばして読んだほうがいい、というふうに言っていました!」とあって、やっぱりのやっぱりであった。それ以外で今のところで思ったところは、登場人物たちの自意識がとても高いところだろうか。常に自分の事を語る、語りまくる、だからといって自分の感情を制御できてるわけではないし、そんな自分を、けなしたりくさしたり、開き直ったりしながら語りまくる。若い時代に読んだ時には、欲望がコントロールできない自分に「なんでおれはこうなんだろう」、など思っていたその悩む心に突き刺さったような気がする。ドストエフスキーの小説はそんなところがある(と思う)。信仰、無神論のテーマは置いとき、生きる価値、意味、アイデンティティー、そして感情に揺れる人間、とその自意識。ドストエフスキー小説の登場人物の身体と精神の分離。というか、その前提としての当時の価値観の怒涛の変化が、人間の自意識をいやがおうにも高めていったのか・・・。  さて自分の自意識は今では何を意識しているのか・・・。よくわからないが『エチカ』に出会って、読み続けることにより何かが変わったような気がするが。  先日、プールに行くと、自閉症と思われる女の子(高校くらいかな?)が、父親か支援者か、と共に来ていた。時にちょっとした歓声を上げる。歩く、ビート番でのバタ足。その後完泳コースでクロール。上手い。とても美しい泳ぎだった。見た目でしかないので本当のところはわからないけれど、がむしゃらでもなく、力むわけでもないその泳ぎは、とてもスムーズだった。久々に気持ちが良い思いがした。なんだかこちらが嬉しくなってしまった。練習しないとあの美しい泳ぎはできないと思うが、きっと水に浮かんで泳ぐことが性に合っていたのではないか。  彼女は泳ぐことを楽しいのだとわかっている。楽しいとわかっている自分がいるのだという自意識は必要がない。泳ぐには不要だ。身体の喜びがある。というような思いは勝手な想像で、実のところはわからないが、そういう風に思いたいというのは、こちらの最近の傾向だろう。  自意識なるものが神経症的に働くのは多分やむを得ないのだろう。しかし規範を求め、規範に従うことを求めることが過剰になると病むように思う。世の中も規範を押し付けるが、その規範も怪しい。とはいえ、自分に合った人生スタイル、これで良し、というような具合にしていくことも中々難しい。  しかし、『カラマーゾフの兄弟』が面白いと思っている自分がいる。
2025/05/28
 2か月経過すると多少のあれこれがあるものだ。もうしばらくすると生まれ故郷に移り住むわけだが、そのためにまずはケア事業の閉鎖の届け提出。利用者さんは多くはないけれど他事業所にケアの引継ぎ。ヘルパーの時間調整は中々難しいもので、皆苦労している。なんとか受けて頂き誠に有難い。従業員も引き受けてくれその事業所、そこを紹介してくれた相談支援員さんに感謝!  自分の会社は零細企業で、その経理仕訳は長年やっているけど、ひたすら現場実践なので簿記資格はないから、一応簿記3級は取ってみた。普段は会計ソフト入力で自動計算が当たり前なので、帳簿記入の基本を知ったのは良かったと思う。複式簿記の凄さは実践で痛感してるけど。  『あたらしい家中華』(酒徒著/マガジンハウス)により、中華鍋を使って料理することがたまにある(山田工業所の中華鍋、すんばらしい)。レシピ通りに作るため、食材の量をはかりで確かめ、調味料は計量スプーンで入れ、炒める順番、時間を守る。自分の傾向と感覚を置いといて、かつアバウトさを我慢して。最近、初めてチャレンジした家中華は、今までより少し食材が多く、手間が多かった。ええい、面倒だ!となるところを抑える。仕込んで中華鍋で勝負だ!そして皿に盛る!食べる!  おお、これは旨いではないか。自分の傾向と感覚で作ったものとは違う旨さだ。これは、ささやかな他者との出会いではなかろうか。他者のルールに従って出来上がった他者の味。自分にはないものだ。料理本の料理は美味しいものである、という前提があるので、全く理解不能な他者ではないけれど、自分ではないことが分かるくらいの他者として。知人の家で頂く料理もそうだが、自分の慣れたものとは違う何かを感じる。  こういう味の新鮮さは、レシピをものにすると失われるのかもしれないけれど、その時は別の喜びが生まれるのだろう。子供時代はそんな新鮮さに満ちているのだろうな。レシピはルール、ルールに従うと別の世界が見えてくる。別の世界を知った驚き。まあ、そこからの展開は色々。極めることも反発することも、変わらないこともあるだろうけど。  大人になるとこれが中々難しい。習慣と経験は巨大な慣性となって人を動かす。かつ高齢になると疲労が加わり、色々と面倒くさくなる。日々実感。中華鍋から小さな他者を感じる日であった。
2025/03/23
 『テクノ封建制』(ヤニス・バルファキス著/集英社シリーズコモン)を読んだ。まあ我々は既にやられっぱなし、という感想を持った。知らずに農奴状態であり、今後もさらにクラウド領主のためにせっせとネットにアクセスする。やれやれ。Amazonで買いたいものを検討したり、アマプラで映画を観たりすると、メールで、あなたに興味のありそうなものとして色々提案してくれる。(Gmailのプロモーションメールはそれ以前に実にうっとおしいが致しかたないのか・・・)google検索しても、検索傾向は筒抜け。ポイントのために何かの会員になると購入情報はすべて蓄積されデータとして売買される。昔、Tポイントカードが出た頃、こんな恐ろしいものは絶対使いたくないと思っていたが(今も持っていないけど)、ネットでサイトを閲覧するだけで個人情報を渡しているような現在、ジタバタしてもしょうがないのだろう。旧twitterで、この広告に興味がない、とポチっただけでこれもまた情報だ。ヒエー。  といいつつ、twitterは好きでよく見てるのだけど、2か月前くらいか、岸政彦氏が『あたらしい家中華』(酒徒著/マガジンハウス)という本のレシピは全部作ってみたい、ということをtweetされていたのを目にした。早速本を購入し、いくつか作ってみた(2023年10月発売の本でものすごく売れた本らしいのだが、この氏のtweetで初めて知った)。連れもいくつか作って、二人して家中華を堪能している次第。最近ふと、酒徒さんの使っている道具紹介のページで、中華鍋は山田工業所の鉄打出木柄中華鍋)とあったのが気になって、ネットで検索。検索すると合羽橋のヤマヤ商店がトップに来た。そこにはこの中華鍋の紹介が。おお、これは相当凄いぞと思う(後でわかったが、中華街では8割の店で使われているらしい)。そして早速合羽橋、ヤマヤ商店へ。メイン通り、外人さん凄い。。。購入しました。鉄打出し平底片手鍋木柄付(板厚1.2mm)。空焚き必要。 空焚きはヤマヤ商店さんでアドバイスを受け、ネットでも調べた。センサー付きガスレンジでは無理なので、カセットコンロでやったけど、中々大変だった。カセットコンロで空焚き、気をつけないとね(危険行為)。その中華鍋で改めて作ってみたら、これが素晴らしい。前の中華鍋と全然違う!焦げ付きがほぼ無いし、1,2mmの鉄板は軽くて良い!!ということで大満足です。  これを例えばamazonとかで購入すると、そのデータに基づいて、確実に色んな中華鍋やらなんやらを、ご興味がおありですかと紹介してくる。ええいもう買ったっちゅうに!アルゴリズムで紹介してくるものが買ったものや調べたものからのデータなんで基本は過去データ。当人にとっては退屈なデータだ。(余談だが、何でもいいが、テレビも映画も商品もヒット作の後追い作品が退屈なのも同じかな。)  確かに、twitterで岸氏のtweetを目にし、ヤマヤ商店をネットで見つけた。これで誘導されたとは言える。ここからは自分の足で向かい、発見し、お店の人から「手造りで同じものはないので平底の大きさも違うから比べて好きな方を」と言われ、手にしたり眺めたりした。身体を伴った活動によって購入したものなので、なんだか嬉しさが違うような気がする。空焚きも苦労してやると余計愛着が湧く。身体感覚、大事だ。  ここで思うのだけれど、もしもtwitterで岸氏のtweetを見た、という情報から、山田工業所の中華鍋情報ががメールで来たりすると、こりゃもう別次元のアルゴリズムだすね。これは恐怖だ。本人も気づかない傾向、無意識の先取り的なアルゴリズム。本人の性向そのものが形成される。。。 SFの世界なのかな。いやはやネットはほどほどに、そして街に出よう。
2025/01/26
 先週、久しぶりに友人たちとの会食。メンバーは、その昔、ヘルパー2級の資格取得のための学校で同じクラスだった二人と連れ。連れもその学校で数年後受講した。二人の内一人とは、実習で同じ老健に行った。私は利用者との会話は弾む人とそうでない人の差が出てきたが、彼女は誰とでも爽やかにできていた。彼女はその後、すぐに介護福祉士資格を取り、今は大手事業所にてサービス提供責任者。もう一人は、明るくてユーモラスな言葉で和ませる人。彼女もその後介護福祉士資格を取り活躍中。学生時代ではないのに、単に講座のクラスが同じだけで長い付き合いができるとは、私としては何とも珍しいことだと思う。連れもその二人とは親しくなって、私よりも頻繁に連絡を取り合っている。  コロナ禍前だから2019年以前に会食をしたが、それ以降、職業柄もあってか全く合わずじまい。諸事情により、私と連れは来年早々には東京を離れるのこともあり、ちょいと早いが連れの提案により久々の会食となった。  マスク姿が常態化し、会食は滅多にしなくなり、休みの日でも遊びでの外出をあまりしなくなるというのは、高齢化もあるのかもしれないが、気力が減退するのは間違いない。活動が億劫になる。テレビもつまらんし、アマプラで映画を観ようと思ってもほぼ選べない(『オッペンハイマー』、『PERFECT DAYS』と役所広司主演の流れで『素晴らしき世界』は観たが)。 読書も生来の集中力の乏しさもあって遅々として進まず(『科学と近代世界』ホワイトヘッド著(中公クラシックス)を読んでみているが「相対性」の章からのろのろ運転中(エンストかも))。ああ、そんな意気地なしに5年ぶりの会食は親しき友人とはいえ少々緊張した。  現地に向かう冬の夕方は、マスクだけが白い(余談:先日仕事帰りの夜、自転車のライトは下向き、満月前夜の月を見上げていると、突如白いマスク姿に気づく。危なかった。ということで白いマスクは貴重な存在だった)。店の奥の座敷には既に二人が歓談中。いやー久しぶりだねえ!から始まって。生ビール注文!おお、なんとみんな変わらずでブランクは無し!5年たつと、二人の子供たちは卒業や就職などなどしている。そんなこともあると話題は尽きない。こちらも話すことが溢れてくる。今日は久しぶりだし、こちらの話より二人の話を聞くことを心掛けよう、などと連れと合意していたのだが、いやいやそんな気遣いは無用であった。誰かがあることを話す、聞く、それに反応する、そして聞く、話し合う。話しは流れとなる。支流が合流する、本流は大きくなる、そしてまた別の流れがほとばしる!早い流れ、ゆっくりの流れ・・・。とてもリラックスした、流れとリズムがある会食で、本当に楽しい時間だった。近年、これは珍しいことだと思った。
2024/11/30
 このところ『剣客商売』のテレビシリーズ、しかもシリーズ4、5にはまっている。連れが元々池波正太郎の『鬼平犯科帳』と『剣客商売』が大好きで、本はもう20年以上前に全巻揃えている。そしてテレビシリーズは録画して楽しんでいる。私もとても影響され、大好きな2作品となってしまった。連れは2作品とも何度も何度も読み込んでいる。よって、『鬼平犯科帳』は中村吉右衛門のものでないとだめで(白鸚ものも好きらしい)、かつ他の出演者もすんばらしいので、今でも時々というか頻繁に観てじーんとしたり、泣いたり笑ったりしている。(明るい気分になるには「密偵たちの宴」が一番である。)  『剣客商売』については、連れはシリーズ4から、主人公秋山小平(藤田まこと)の息子、秋山大治郎を山口馬木也が、その妻となる佐々木美冬を寺島しのぶが演じることになって、まさに小説のイメージとぴったり!といってシリーズ4、5を熱愛しているのだった。  『剣客商売』シリーズ4、5を今改めて見始めたきっかけがある。連れが剣客の山口馬木也のファンであり、彼が主演の映画が『侍タイムスリッパー』が公開されたことだ。単館上映が口コミにより瞬く間に全国公開となったこの映画の主演が山口馬木也!ということで連れは『RRR』以来の劇場鑑賞を熱望、私も同行。ストーリーも面白いのだけど、主演の山口馬木也がすばらしいから、というのがある。演技も殺陣もすごい。切れ味抜群の殺陣と美しい所作が際立つ。これにより山口馬木也ブームが再燃したのだった。  4、5なので全21話しかない!テレビはニュース番組を少々見る程度でドラマは全く観ないので、毎夜毎夜4、5のどれかを観る日々が続く。毎日観ているのに、おはる(小林綾子)が洗う大根が立派だねえ、いやもうおはる役の小林綾子の演技はやっぱりすごいねえ、寺島しのぶはもう最高だね、弥七(三浦浩一)、傘徳(山内としお)がまたいいねえ、とかとか、二人して毎回感心しているのだった。  これはいったいなんなんだろう。思うに世の中はマンネリズムに溢れ、エントロピーは増大し、言葉はハイパーインフレ気味で、消費は煽られるけれど空虚さが隠しおおせず、消費してもあまり喜びは得られない時代となってしまった。物語もそうなんだろう。そんな時代に、名作はいつまでも輝きを失うことなく残り続けている。なんていうのも紋切型の表現だ。しかし、『剣客商売』や『鬼平犯科帳』には、ストーリーも演者も撮影も音楽も何か極みのようなところに至っていて、いつまでも人を飽きさせず、感動させるんだろうな。
2024/09/23
 中学生の頃までは、多分何も考えてない。言葉で考える習慣がなかったように思う。言われたことを一応するにはするんだけれど、言われたことについての言葉を持ち合わせていなかったし、何かしたいこと(あったっけな)も、言葉で表現していなかった、と思う。高校では新しい友人が登場し、言葉で考えることも少しずつだが出来るようになったような気がする。中学時代の自分に嫌気がさすような感じとなって、中学時代の友達、先輩は友達ではなくなってしまった。高校で顔を合わせても挨拶もせずで、高校でできた友人との関係が始まった。  など振り返ったのは、言語は後から習得するものだということを今頃になって改めて感じたからだ。中学まででは、言語メッセージを身に付ける力がなく、ぼんやりと生きていて、高校生になると、身体的成長によるのだろうか、友人によるのだろうか、言語が少しずつ身につく。けれども身に入る言葉とそうでない言葉があり、それは身体的な反応かもしれない。よって反抗期なるものも出現した。身体的に受けつける受けつけない、生来のものなのか、それまでの環境によるものなのか、多分両方だろうけど、自分の中の何かが芽生える時期なのだろう。そのような傾向が内在しつつも言語的思考が少しずつ発生していった。要は、あーだこーだと言葉が浮かぶという風になっていったということで。  映画『キングスマン:ザ・シークレット・サービス』でコリン・ファースが「マナーが人をつくる」みたいなセリフがあったと思うけど、言語が人を作るんだろうな。共同体に参入する基本的なツールの修得。  しかし、中々これが身につかないんだな。だって他者だもん。などと開き直っても仕方ないけどそうなんだよなあ。言葉で何を考えてるんだろうか。いや待てよ、浮かんでる言葉は単なる印象を言語化してしまってる、感情ではないの?「〇〇はいいね」「〇〇はダメだ」「〇〇は云々」「あの人はどーのこーの」「これはこうであれはこうで」・・・。  スピノザ『エチカ』(岩波文庫)第2部定理49の備考で「・・・観念と事物を表現する言葉とを区別することが必要である」「・・・言葉および表象像の本質は思惟の概念を全然含まない単なる身体的運動に基づくものだかである」、とあるんだが、全くもってそうなんだなと思う。これを読んでいて、なんで言葉が身体的運動なのかね、思っていたところ、自分に浮かぶ言葉を意識したら、ありゃそうだねとなったんだろうけど。まあつまり、単なる印象を言語化してるだけじゃん!  とすると、『エチカ』にある共通概念(理性)は、違う言語使用なんだろうね。ロゴス・・・。  柄谷行人『探求Ⅱ』で、スピノザの単独性というのは個と共同体ではなく、普遍の中の個、ということだ、というようなことが書かれてたと思う。スピノザは、オランダ語やポルトガル語で『エチカ』を書かず、ラテン語で書いたんだね。共同体を超える言語で。『スピノザ 読む人の肖像』(國分功一郎著)P.346に「スピノザは言葉を用いて、言葉が到達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである。」とある。言葉を用いるけれども、伝えようとしていることは言葉を超えている、そんな言葉。  いやー、わが身に振り返って、普段浮かぶ言葉はほぼ表象的で印象的なだけで、それは実は身体的な運動であり、しかしそれも実は共同体内の言語で浮かばざるを得ない・・・。仕方ないから、せめてできるだけ意識的でありたいと思う、まだ暑い初秋でした。
2024/07/30
 山口市の湯田温泉街は実家から歩いて5分程度のところにある。少年時代は井上公園で遊んだり、そこでの縁日に行ったりした。取り立てて何かがあったわけではなく、思い出にしんみりするというわけでもない。まあそのあたりで生活してたよね、というくらい。東京で暮し始めてから、盆正月には実家に真面目に帰省しており、1年に計10日前後の滞在を繰り返し、ぼんやり過ごしていた。  今年の夏は都合により早めに帰省し、長らく手を付けていなかった過去帳をお寺に持っていった。過去帳なるものを広げたことのない私は、パラパラと開いてみて、最初に記載されている元号が安永となっていることを知ったが、なんだかピンとこないのであった。帰りに道の駅に寄ってみたけれど、閑散としていて田舎らしい人の少なさ。欲しいものもないのでその隣にあるスーパーで連れが地元の干し椎茸を買った。  なぜ干し椎茸?ピエンロー鍋の素晴らしさにずーっとハマっていて、冬でも夏でも食べたくなるのです。干し椎茸を一晩位かけて戻してそのつゆと共に白菜どっさり煮るもの。後は豚肉と春雨のみ。あーホントに飽きないなあ。シンプルなのに飽きないのでひたすらそれだけを食べる。すんばらしい鍋ですね!  話がそれた。いや今回は思いつくまま、帰省の記憶やそこから派生するものなどを書こうと思って。湯田温泉街にあって、帰省する度に行くようになったところが『晩酌処 沖』というところ。お酒も肴もリーズナブルで、何よりそこで出すうどんが美味しい。山口市といえば肉うどん。昔の小郡駅(現新山口駅)ではこの肉うどんが割と有名だった。通学高校生も食べてたはず。山口のうどんは腰がなく、とりたててすごいものではないんだけれど、甘辛牛肉が乗ってる、やさしいうどん。これがこの『沖』では絶品なんだなー。私は最高にうまいと思います(つまり、讃岐うどんでも、資さんうどんでもなく、博多うどんのどろどろになるものでもない、とりたてて特徴はないうどんと思うけど)。なんとお値段550円!おすすめ!!  翌日は初めて入るカウンターが5席、裏に座敷2テーブルの飲み処。連れが帰省の度に気になって、いつか入りたいと思っていたところ。連れが『沖』の帰りに翌日の予約をして入った。当然、常連さんが既に始めておられ、私たち参加。ママさん、スナック歴23年、ここで16年、すごい。みんな美味しかった!ママさんも実家のご近所の方であった。帰省の度に行ける店がひとつ増えました。  ところで、最近山口市は取り上げられているようなんだけど、なんでかわからないままなのだ。まあ特にすごいものがあるわけでもないので、私たちにとってはどうでもよいです。しかし、「バリそば」なるものの記事がどこかであったかしら。これについては、実はとても好きで、帰省の度に必ず1回は行っている。皿うどんでもなく、チャンポンでもない。お皿に焼いた麺とその上にはざく切りキャベツや椎茸、イカ、かまぼこ、ひら天、豚肉、鶏肉、そしてよわーい餡かけ的なスープがかけてある。なんだ皿うどん、チャンポンではないかと思われるでしょうが、スープもさることながら、麺が絶妙で、スープに浸っていると少しずつ柔らかくなる、だけど絶妙な腰があるんですね(説明しても皿うどんかチャンポンかな)。これが飽きない。お店の名前は『春来軒』。何店舗かあるけれど、高校時代も行っていたところが一番美味しく、私の求めている麺と味。なぜかそこはバリそばではなく、メニューは焼きそばなんだけれども。。。書いていながら、また食べたくなってきた。また年末年始に!やってれば食べたいなと。  山口市の食べ物・・・地味ですかね。いや私の好みが地味なんですね。テーマは飽きない食べ物だったか!?  あ、そうだ、ここは鯛のお刺身のホントに美味しいものに“出会える”?ところでもあると思います。
2024/05/26
 2月に、大学時代のフェンシング部、数十年前の当時は同好会だったが(何代か後の後輩が頑張って部に昇格させた。その後人が集まらず今は休部?)、同期の主将であったKが声がけして飲み会が開催された。その後、近場(東京付近)のもので改めて飲みませんかとのS先輩の提案により、先日2回目が行われた(1回目の飲み会には木更津のY、茨城の後輩Fが参加したのだが今回は近場ということで二人にはお声がけしなかった。すみません)。参加者はS先輩、前回コロナで欠席したT、主将K、そして私の4人。S先輩はサーブルのリーダーでもあり、Kもそれを継いでサーブルのリーダー。Tはフルーレ、私はエペのリーダー(私は強くないけど、まあ割り当て的に)。ということでフェンシングの話しになるかと思いきや、もちろんほとんど出ない。いや、少しあったな。Tはエペも旨かったから、最近の日本人エペ人の活躍を知っていて、現代エペが昔のスタイルと全然違うのだということを教えてくれた。今度どこかで映像でも見つけたら、改めて見てみよう。  ずっと前から思っていたことだが、対人スポーツの面白さというのはあるなあと感じていた。攻撃と防御、剣があるとはいえ、直近に相手がいることなので、先方の動きを見ないと始まらない。このやり取りはケア現場にも少しは関係するような気がするが(それが最大に生かされているかはこちらの能力不足により疑問だけど)。本能的に動くしかほぼできなかった私のフェンシングはコントルアタック(カウンター)のタイミングを待つスタイルだった(スタイルと言えるのかしら)。それから数十年後!にふと、しかし、攻撃の糸口はどうやって作るのだ?と思ったことがある。待ってるだけでは受動的なままではないか。まあつまり、戦局を打開する戦術が無いわけですね。考えてないということで。考えるのが苦手。本能で体を動かすのが好き、反射神経だけで反応するしか能がなかったようだ。戦術を立てて戦うというのは、身体練習とは違う練習や訓練が必要なんだと今更に思う。いやはや。  前置きが長すぎた。飲み会で感じたことは(いや振り返ってかも)、私がその当時のまんまで話してるということだった。今の状況は皆それぞれなんだが、今の話をするにしても、昔のままのありようで聞いたり話したりしている。同期も先輩も、私の中ではその当時の状況のまま。身体的変化や立場の変化はもちろんあるんだが、それは何か仮象であるような。。。同好会といえど体育会だったので、4年間は濃密な時間過ごしたと思う。そんな時間を過ごした身体が記憶しているとでもいえるのかもしれない。身体的記憶の方が表象を蹴散らすとでも言おうか。高校の同期会もそうだった。古い経験なのにその時のままのありようで聞いたり話したり。。。スピノザの『エチカ』には、人は身体が何ができるか知らない、とある。確かに。当時のありようで聞いたり話したりするのは、意識してやってるわけではなくて、ただそうなっているだけだ。これはコントロールできないもので、どうしようもない。確かに数十年の空白があるので、当時のままで対応せざるを得ないということもあるかもしれない。とはいえど、何十年も生きてきて何かが積み重なっているとは思うのだが、積み重なっているであろうところから対応しているように感じさせるものが希薄なような気がする。意地悪な見方をすると、かつてのありようで接するという無意識的欲望が優先されたのだ、ということもあるかもしれないが、そうすると意識的にコントロールなど出来るものは実に少ない、ということになるんじゃないかと。つまりは、身体が表現しているということで。スピノザは表象の中に言語も含めているので、これまたなるほどなと思う。話す言葉や頭に浮かぶ言葉など、身体の変状がそうさせるだけで、身体の傾向がそう仕向けてるとしか考えられない。  そうすると、友人とは不思議なものであるなと思う。親友とはこれまた更に不思議度が増す。親密さの実感は言葉で説明できないものだと改めて思った。またまた『エチカ』(岩波文庫)から、「第2部定理43 真の観念を有する者は、同時に自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。」、備考に、「あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。」とある。真理の説明、解説は真理そのもとは違うわけで。友人とは、親友とは何かは説明できないですね。すんごい長い前置き2段でしたが、最後の段落が主題でした。
2024/03/26
 かなり前に『探求Ⅱ』を読んでいたけれど、最近、他の柄谷行人の著書を読んで勢いづいて再読しようと手にした。柄谷氏の文体は一文が短く、断定的な調子なので読んでてとても気持ち良いということにも気づき、読むことに惹き込まれていく。...

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