2019/04/15
 4月7日、連れの知り合いからありがたく頂いたチケットで久々に神宮球場へ。席の位置はネット裏、ほぼ真ん中で、少しだけ高いところなので、最高に見やすい場所だと思う。今までで一番いい席でした。...
2019/03/05
『居るのはつらいよ』はセラピスト東畑氏の沖縄時代の精神障害者向けデイサービスの日々を軽妙な文章で描いて、あっという間に読み終わるほどの面白さ。利用者や職員との交流は実に味わい深いので、読んだ人たちからいっぱい感想が出てくると思う。それは置いといて、終盤あたりに出る「会計の声」がぐっときた。なんといってもつまりは仕事=お金という現実!サービスはお金という尺度によって全て計られるのであった!という現実はのっぴきならない、というところ。いやはやそうだよなあ。セラピーもカウンセリングもデイサービスも何もかも1時間いくらだったりするわけで。これが資本主義的システムなんで、致し方なし!これしてなんぼ、これされてなんぼという、サービス供給者も需要者も気づこうが気づくまいがレジがチンチンなってるという。しかし、そうだから良いというのもあるんだろうなあ。介助という仕事も恐ろしく細かい単価制度ではあるが、サービスを金額換算する。頼むほうも頼まれる方もサービスへの対価ということだから、情緒的なところ、人間的なところなど余計なことを考える必要がない(少なくなる)。こりゃ中々デジタルな感じですっきりしてるわけです。なんだけれどもそう割り切れないんじゃないの?というか、割り切れない何かが多分ある。いやだからこそあえて割り切る仕組なんじゃろ?と思いはぐるぐる回っている。  ここで話が飛ぶのだが、仕組みや制度は何を目的としてるのかなと考える。資本主義はお金を使ってお金を生み出す仕組み。あらゆるものをお金という価値で計る仕組みで、お金を手に入れ、お金を使って何かを得るためにある。だものでこの仕組みは、アナログな存在としての人間とか自然とかには関係ない。だから多分無理がある(人間も自然も疎外され、労働力や資源、不動産などとなる)。ここからはさらに無茶な発想と思うが、介護サービスにおけるあの途方もない単価制度や、やたらに細かい制度は何のためにあるのだろう。これは管理する、という考えだからろう。もちろん、国民から徴収した保険料や税金を無駄に使わせないために管理せねばということだろうが。しかし、このようなサービスは人格も関わる人間労働なので、中々単価制度になじまない部分もあると思う。だからこの単価制度を含めた制度は人間を疎外してるんではなかろーかと(この言い方にはちょいと無理があるか)。いやだからあえて人間を考える必要のないすっきりデジタルな単価制度なんよ・・・またぐるぐる回っている。(とはいえ、途方もない事務作業が生じることは間違いなかろう)  先日、新聞に掲載されていた記事をネットで読んで僕も感動した。世田谷区桜丘中学校の校長先生の記事。この中学は校則がない!チャイムもない!校則がないなんて!!!!チャイムもないなんて!!!!生徒も先生ものびのび生活している。なんてすごいんだ。これを読むと、校則なるものは倒錯しているんだなと思う。規則のための規則。管理のための管理。生存し共存し考えることを学ぶということには本質的には関係がない。  さらにぶっ飛ぶが、ここでスピノザ「エチカ」の定理を考える。第一部定理16:「神の本性の必然性から多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ」(神=唯一の実体=自然を忘れないように読んでも難しい)証明部分には、省略するけど「・・・物の定義がより多くの実在性を表現するにつれ、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論する・・・」いやこれだけ読んでも何がなんやら全然わかりましぇん。スピノザはこの例にどこかで円の定義について書いていたが、わからないのでここで無茶苦茶な発想、人間を定義すると(誰がする?というのがあるか)して、その定義が実在性を表現するにつれそれだけ多くの特質を結論する。確かに、そうすると人間について色んなことを見出すことになる。えーい、何をこじつけたいかというと、つまり上述の、仕組みや制度、規則は実在性を定義してないので、自然の一部としての人間にとっては無理筋だったり、空虚で倒錯的なところがあるよなあ、というところかしら。(いや、こりゃ大上段に振りかぶってみたけどこじつけ過ぎだと思う)
2019/02/04
 きっと会計学なんてことになると違う世界と思うんだけれど、日ごろの経理業務をしているとホントに複式簿記の凄さが身に染みてわかる。会計には、最近では『帳簿の世界史』(ジェイコブ・ソール著:文春文庫)や『会計の世界史』(田中 靖浩著:日本経済新聞社)など注目されているみたいなので、興味のある人も多いのではなかろーか。...
 年末に帰省し、1月1日には久々に姉夫婦やらその子供たちやらが集まり、にぎやかな新年会となった。...
2018/12/05
 弊社決算も終え納税も済んだけれど、いつも消費税には悩まされるなあ。...
2018/11/05
 昨日、曼荼羅寺観蔵院の第24回悉曇仏画展に行ってまいりました。  曼荼羅DVD制作でお世話になって以来、毎年のようにお伺いしております。5日間にわたる展覧会は展示のみならず、法会、講話、、声明公演と萬燈会、チャリティーコンサートなど盛り沢山。...
2018/10/02
 プールで泳ぐのが習慣となった。ずいぶん昔、どこかのフィットネスクラブに通っていたころ、インストラクターがなんとも優雅に泳いでいることに衝撃を受けた。クロールでゆっくりと、今表現するなら、ワンストローク、ワンキック。バシャバシャするバタ足は全くなし、水しぶきほぼ無し。4拍左右の息継ぎ。潜水艦が浮上して静かに進んでいる、または、イルカのようなのが、超ゆっくり進んでいるようなイメージ(昔のことなのでイメージふくらみ過ぎたかな)。 それ以来、マラソンのように、いや歩くように延々休みなしで泳ぎたいと思って、それをイメージしながら泳ぐようにした。これが初めのころ難しかった。バタ足から解放されるために、手を伸ばしてぷかぷか浮かぶことから始めて、足は動かさないで、腕をボートのオールのつもりで前へ進むようにして。。。その感覚がなじんだら、足は腕のタイミングと意識して1回ずつ動かすようにしてみる・・・。それからほぼ10数年、まだまだぎこちないけど歩く感じで泳いでます。  幼いころの補助輪なしの自転車に乗る練習を思い出した。多分、補助輪付き自転車に乗った記憶がないから、姉の使っていた24インチくらいの大人用で練習するしかなく・・・、まあできないできない。足が地に着いてないもんだから、倒れるは、田んぼに突っ込むは、痛い怖いで、何とか乗れるようになったのは、なぜだかよくわからない。  さてずいぶん前のことだが、自分の子供には子供用自転車があって。補助輪がついていた。いつの日か、公園で補助輪外して自転車乗りの練習をすることになった。バランスを取りつつ、足をペダルに乗せてこいでみる、いざとなると足が着いて倒れるのを防ぐ、というの、ああ、なんて素敵な練習方法なんだ。ものの20分もしないうちに乗れるようになったではないか!僕もこんな練習をしたかったなあ。子供はその後一輪車にまで乗るようになり・・・いつの間にか大人になった。  そんなことを日曜の朝、泳いだ後につらつらと思い出した。スピノザは、実体は必然の連鎖で動いているわけだから、その中にある人間の自由を認めてない。自由と思うのは、あらゆる連鎖とその法則、その及ぼす結果を全て把握できる能力がないからだ。人間が自由か自由でないかの論議はよくわからない。でも、自転車を、一輪車を自在に乗りこなすとか、思ったように泳ぐ(僕はまだぎこちないです)とか、それは重力や浮力や推進力の法則を体が身につけて利用できるようになったということで、それが自由(自在)ってことでしょーか?とすると思考の自由とはどうなったときなんだろうにゃ。
2018/09/07
世田谷雑居祭りの季節が近づいた。今年が43回目、すごい。 4年くらい前、高次脳機能障害の方に教えて頂いてから、出かけるようになりました。...
2018/08/03
最近『なぜ今、仏教なのか』(ロバート・ライト著 早川書房)を読んでみた。マインドフルネスや瞑想についての本をいくつか読んでいたけれど、これは指導書ではなくて、本人の瞑想体験と瞑想についての論考。 感想の切れ端がまだ記憶にあるうちに。...
いやはや、何度読み直してもなかなか見通せないので、行ったり来たりしながら『エチカ』を読んでいる。 第5部定理22の「しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」という、本質、永遠性の相、表現する、観念、必然的、という盛り沢山な言葉にめまいを覚えつつ。...

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