2023/05/27
 いやー、何度も頷きながら読んだ。ここのところ、日本の閉そくした状態が息苦しいなあと感じ続けているので、その理由の一端が鮮明にわかってとても有難い。既得権益層がいかに日本を酷いものにしているか。自民党、経済団体、宗教団体、官僚、マスメディア・・・。国民をないがしろにしていることに絶望するね。マスメディアについては特に言いたいな。他の既得権益層は露骨に利益誘導することはわかる。マスメディアは権力の横暴には批判的になっても良いと思うのだが、逆に阿っている。時に政治批判をしているように見せて、実はがっつり政権の味方だ。この偽善ぶりが甚だしい。人々の目にする機会が圧倒的に多いためにその罪は大きい。こりゃもう洗脳だ。戦後、報道機関としても長いこと君臨し続け、じーさんばーさん世代はマスメディアが言ってることは何でも正しいと思ってる(人が多いと思う)。政治的な無関心を全世代的に植え付けているのもマスメディアだ。日本の滅びを加速させてる。そりゃスポンサーありき、電通ありきで、身動き取れんのかもしれないけれど、(じゃNHKはどうなんだといえばこれまた酷いことになってて)、結局自分の首を絞めてるんじゃないのかなあ。でもこの仕組みでは無理なんだろうな。。。官僚の上から目線も、縦割りの弊害もそうだし、内部からの変革なんてできてたらもうやってるだろうしね。というようなことを思うことによる閉そく感の増大かな。  映画『RRR』が日本でロングランだ。私も5回観てしまった。100回以上観てる人もいるらしい。勝手な想像なんだけれど、コロナ禍に加えて、特に日本の閉そく感は増してしまったので、日本人にこの映画は強烈なカタルシスを与えるのではなかろーか。そんな大雑把な・・・。例えば決めポーズシーンのカッコよさとかも魅かれるのかな。見えを切る、という言葉があるので日本人は特に感動するのかしら。。。ストーリーやキャスト、音楽、踊り、がいいんだと言ってもねえ。確かに。でもそう言いいながら、そのどこがいいのかうまく説明できん。誰かから説明されても、そうだそうだと思うだろうが、そうだと思う前に既に魅かれてるので、説明は後付けだ。『エチカ』に、善悪は、先に喜びと悲しみの感情があって善悪は後付けだ、とある。この映画は何々ゆえに最高だ!というのは既に身体的に喜びと感じてるからだものね。かつその喜びと感じてる原因を我々は知らない。  おっと『政治はケンカだ!』から逸れてしまった。閉そく感を結果として意識する。ではその原因は何か。。。「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びで、憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみ」(エチカ)と、閉そく感は外部の原因の観念を伴った悲しみ、かなあ。しかし、外部の原因は無限に凌駕される(エチカ)、と・・・。
 『エチカ』新訳は淡々とした訳で、すーっと入ってくるという感じがする。そんな感じを抱きつつ、以前にも書いたことのある、個人的に気になっている第5部定理23の備考の中の、ある部分を読む。「じっさい事物を見たり観察したりする精神の目は、もろもろの証明そのものなのだから。」。畠中尚志氏の訳は「つまり物を視、かつ観察する眼がとりもなおさず〔我々が永遠であることの〕証明なのである。」ドゥルーズやフレデリック・ルノワールの解説ではたしか、論証とは精神の目だ、というような表現だったと思う。論証とは精神の目、という方が自分にはわかりやすいと思ってたんだけど、前後の文脈からするとなにかしっくりこない気もしていた。といいつつ、同じことを伝えようとしているのに、実は自分が全く分かっていなくて、大勘違いという可能性もあるのですが。個人的には今のところなんか違うような気がしてるので、まあ少し違いがあるんじゃないかな、という前提で考えることにしよう。  『「神」と「わたし」の哲学』(八木雄二著/春秋社)の中に主観的真理ということが書かれていて、P.161「わたしは、真理には、客観的(対象的)なものと、主観的(主体的)なものと、二つあると言う。なぜならスコトゥスによって提示された「直観認識」は、主体的に直接的であって、まったくの「主観」だからである。」とあった。  スピノザの第三種の認識は直観知だった。ドゥルーズは第5部は第三種の認識によって書かれていると、書いてたと思う。そうか、精神の目は第三種の認識からの精神の目、ということなんだなと思い至る。それだから、その目から物事を見る、観察するというのは、直観認識による真理の把握、ということだと考えていいかしら。  スピノザは言葉も表象にすぎない、と書いている。幾何学的証明は言葉で進めるしかないが、これは第2種の認識(理性、共通概念)によって表現される世界。確かに一般に理解されるようにするにはまずは言葉で表現するしかない。しかし、真理に近づく方法ではある。けれど、「おお、そうなっているのか!」とか、「おお、そういうことなんだ!」というような心身全部で実感するものの真理(=主観的真理)は、言葉だけで表現されるものではない。ということなんだろうな。  という考えからすると、上野修氏訳で読み進めることができる。ただし、字面を追っていってもよくわからない。なんとなく読んでしまい、なんとなくぼんやりしたまま進んでいくだろう。  そんなことを考えつつ、この直観認識に至る、というのは「稀であるとともに困難である」(畠中尚志氏訳)よ。
2023/01/28
 年末年始に山口市の実家に帰省。両親のいないがらんとした家。姉が時々来てはメンテナンスをするくらいの家。日本の家は寒い。冬の実家は寒いとわかっていたし、温める人もいない現在だから、こりゃ冷えるなあと思って、駅に着く早々ホームセンターでプチプチを買った。木枠でガラス1枚の窓に貼りまくる。多少は効果があるのではなかろーか。蛇口から出る水は茶色だった。しばし出し続けるが鉄サビの臭いが当分残る。不在の家の現象に少々しんみり。台所の水道は根元から水漏れ。うーむどうしたもんかと思ったが、しばらくすると止まる。恐らく水を流す人がいないので、パッキンが乾燥して止水できない状態だったのだろう。水が染み込むとパッキンは膨張してその役目を果たし始めたと考える。まあいずれ変えなければならんだろう。数年後は実家で暮らすつもりだが、メンテナンスを考える機会でもあった。この度は正月を祝うことはないが、姉夫婦、その子供夫婦2組、その子供たち4人がやってきて正月に宴会。これは賑やかで楽しく過ごせた。田舎の家は皆が集える場所がある。昔ながらの季節の集いがあるのは、不在の家を明るくした。  そして東京で1月が進む。『バーフバリ』『マガディーラ』の大ファンである私と連れ。ついに『RRR』を新宿ピカデリーで観た。ゴールデングローブ歌曲賞も受賞し、ロングランがさらにロングラン、1番大きいシアター1での鑑賞となった。すごいじゃないか!ネットでは既に大盛り上がり、シーンも、音楽も、主役二人も絶賛だ!『マガディーラ』で知ったラーム・チャランが途方もなくかっこいい。連れは特に『マガディーラ』ファンなので私の数倍感動した模様。生まれて初めて3回見に行く。品川のIMAX。そして新宿バルト9のドルビー!ファンはブルーレイを心待ちにしている。私たちもだ。そしてまた繰り返してみるのであろう。今のところ、IMAXでの奥行きを感じさせる画面が良かったと思っているが、そんなのは些細な違いなので、小さな感想というまで。  ところで『マガディーラ』で100人の敵と戦うシーンで、一瞬静かになって流れる音楽、その歌詞を読んだときに、これは『バガヴァッド・ギーター』的だなあと思っていた。『バガヴァッド・ギーター』は時に読んでいたのでなんとなく。『RRR』ではダイレクトに、『バガヴァッド・ギーター』からの言葉が語られていた。ラーマ役のラーム・チャランが監獄で言うセリフ『責務は行為そのものにある。その結果にはない・・・』のところ。(上村勝彦訳は職務だけど、ほぼそのまんま)いやーこれがまた泣かせますね。『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が取り入れられているのはインド映画ならではだろうなあ。いいねえ。本国では取り入れられ方に不満のある人もいるらしいが、それはそれ。私たちはとても楽しめた。  そんな1月であるが、ものすごい本に出合った。『<個>の誕生』(坂口ふみ著/岩波現代文庫)である。この本の解説を書かれている山本芳久氏のTwitterをたまたま見かけて知った。まだ途中なのだけれど、坂口ふみ氏の途方もない知識と深く繊細な思考。まだ言葉がまとまらないんだけれど(いつもだが)、まずはそこに驚愕する。そしてキリスト教教理がどのように練り上げられていったかに眩暈がする。数百年をかけて論議されてきた教理、あまりの微妙な違い、だがそれが重大なことであり、徹底的に練り上げられていく過程。読んでてわけがわらなくなる。しかし、そのようにして西洋の<個>という概念が築き上げられていったのだろうと思う。(現在、第4章「キリスト教的な存在概念の成熟」の途中なんで、よくわかっていないまま書いてます。取り急ぎの驚きの感想までということで。)この<個>というものが、西洋世界の人々に深く浸透しているのだろうし、その<個>という概念が世界に行き渡っているから、我々もその上で考えているのだろうな。日本でも西洋を真似し始めた時からそれは考えざるを得ない概念だろう。それに影響を受けている、ということに自覚的にありながら、つまり、<個>という概念が深々と根差したものではなく、無意識的なものとして身についているものではない、ということに自覚的でありながら、日本人として改めて自分を考えてみる、ということが必要なんかな、と思うようになりました。  余談だけど(余談しか書いてないか)、そんな世界では、スピノザの著書がいかに許されないものだったのかがより感じられるようになった。スピノザ・・・すごい。  もう一つの余談、本書あとがきに、「・・・同僚の畠中美奈子、岩田靖夫の両教授にまずお礼を申し上げたい」とある。おお、あの『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫)にある「思い出すままに」の著者、畠中美奈子氏、畠中尚志氏の長女!國分先生がお会いになられたその方!ではないか!そこにも何か感動するものがありました。  冷える1月に熱い感動話でした。
 國分先生の『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)は、すごい本だ。まずはそういう感想。何度も読まなければならない。僕は『エチカ』が好きなので、それについて書かれているところをとりわけ繰り返して読むのだけれど。感想を追加すると、鑿の一閃、揺るぎなき彫刻、によってスピノザ哲学・倫理の輪郭がガチっと現れる、とでもいう感じ。今までほわっとしていた姿が明確に削り出されてくるような。  挙げればきりがないけど、P.188からの、「「意識は原因について無知である」という単なる否定的な説明に留まることはできない。・・・意識は目的を知っているのである。・・・」。鑿の一閃だ。スピノザ哲学、倫理を実践するためには、考えを進めていかなければならないという決意。『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)p.124では、「意識は行為において何らかの役割は果たせるのです。」というところからより実践へ向けて彫り進められる。  『はじめてのスピノザ』P.122、「では意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として提起しています。」から、『スピノザー読む人の肖像』P.195「・・・しかし、あらゆる観念の観念が意識であるわけではない。」ドゥルーズの解釈からのさらなる踏み出しによって、より実践的な行為へと導いてくれる。鑿の一閃、揺るぎなき彫刻刀の進み。  P.346について書くのははやすぎるかもしれないけれど、すんごいんだなあ。「・・・言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。・・・だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書は本当に実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである」。そして、國分先生も言葉を尽くして語りつつ、我々の倫理の実践が大事と説く。  この本をまた形容するなら、『エチカ』を自転車的乗り物と考えると、最初から進むにはギアがなくて重すぎる。5段ギア的である國分先生の本を装着して、進みやすくしながら段々ギアを落としていく。そして『エチカ』をノーギアで漕いでみる。時に坂道ではまたギアを入れて進み、いつかは『エチカ』号と一体になって進む、そのための最強のギアだ、という感じでしょうか。僕なりの形容でしかないですが。  もう何年も前に『1945年の精神』というDVDを発売するときに、ブレイディみかこさんのご提案により、國分先生の映像を撮るという、ありがたい機会に恵まれた。國分先生のご自宅にお伺いし、撮影する予定だったが、あいにく道路工事の大きな音によってご自宅での撮影は断念。近くの公園での撮影をご提案頂き、そこまで歩いていくことになった。先生はその頃『中動態の世界』の最終校正の時期だったと思う。おぼろげな記憶なのだが、先生はその本の主題について考えることによって、スピノザについてどうしてもわからなかったことがわかるようになった、というようなことをおっしゃっていたように思う。僕には全く分からなかったので、何も言えなかった。僕は話をそらすように、スピノザの「永遠の相の元に」というのはどういうことなんでしょうか、という質問をした。いやあ素人がいきなり思いつきでしてしまった。先生は「それはまたにしましょう」と言ってくれた。それは今説明しても長くなるし、それを問う前に僕にはまだ考えることがあることを、さりげなく教えてくださったのだと思う。  『エチカー読む人の肖像』P.340の永遠性についてのところ。自身のその時の記憶もあって、この鑿の一閃に感動している。
2022/09/24
 いやー、日本がひどいことになってることがよくわかる。なんといっても、安倍元首相殺害事件から注目されるカルト宗教団体の実態と自民党の癒着問題。これは一部は除くメディアが取り上げることで、どんどん明らかになってるから、そのあまりの酷さにあきれる続けている。私としては、こんな自民党が与党であり、かつ内閣として行政権力を握り、長きにわたって日本を動かしてきたということに衝撃を受けた。安倍政権がどれほど酷いことをしてきたかはほとんどの人が分かってるにもかかわらず、それらがなぜかうやむやにされて今まできた。権力によりうやむやにされてきた。オリンピック贈収賄事件ももちろん、やっぱりね状態。なんとなく変じゃないか、と多くの人々が思っていて、それもあからさまになりつつある。権力者の死によってようやく出てきたのか。それも悲しむべきこと。権力者の思いによって腐敗はいかようにも隠蔽されるということだもの。  しかし、その腐敗まみれの権力が日本の方向性を決め、マス・メディアも追随し、国民は無知状態におかれて、ひどい状況が作られた。マス・メディアのもっともらしさというのはそれにしてもたちが悪い。政権に依存しつつ、それを決して表に出すことはなく(出てるけど)、さも中立的立場で伝えているようなもっともらしさ・・・。振り返って気づくしかないのだろうか、なんちゅーか各マス・メディアを動かすイデオロギーがあまりにも醜いことが改めてよくわかった、ということですね。今の、カルト宗教追及は、どっちに行こうとしてるのか後でわかることなんかな。  ついマス・メディアの酷さの方に行ってしまった。いやあまりに酷いのだ、政権、長期腐敗体制(『長期腐敗体制』白井聡氏)が。その政治がカルト宗教の信条に多く一致しているだと!夜中に頻尿で目覚めることはあるんだが、ふと、この日本はやばいことになっていたんだし、やばいことにした権力者がこんな状態だったということに衝撃を受けて目が覚めることはなかった。多くの議員はカルト宗教に依存してでもただひたすら自分が当選し、報酬で生きることしか考えてなかった。人々のための代表であるという基本など無い、ということが分かったのであった。それらが権力を握っているということのなんとおぞましいことか。日本が良くなるわけがないぢゃないか、と改めて思うのだった。  3日後に国葬ですか・・・。これも悪夢だ。腐敗体制の中心人物を国葬だって。カルト宗教万歳政権だ。  多くのマス・メディアは国葬を中継するんかな。どういう風に?嘲笑の的として?列席者については色々な面から取り上げられるんだろうな。  最近グレゴリー・ベイトソンの『精神と自然』(岩波文庫)を読んでますが、面白いです。論理階型(ロジカル・タイプ)から、上記のことをふと考えてしまった。権力が発言する、またはマス・メディアが発言する、その発言が駆動されるには、なんらかの別の論理階型が必要だけど、それがあまりにも酷かった、といことになるんかな。メタ・メッセージに気づく、という、別の論理階型が必要だ。しかし、それはどうやったら手に入るのか・・・。
2022/07/21
 いやはや、2か月間を空けるとホントにいろんなことが起こるなあ。前のブログにもそんな感想を書いたけど、ホントにまあ色々。...
2022/05/21
 インターFMの日曜16時からの「松浦敏夫のTokyo...
2022/03/20
 2か月の間の色々なこと。コロナ感染の猛威。今でも東京は7,000人越えの感染者という。BA.2の拡大はこれからなんだろうな。ロシアのウクライナ侵攻。あってはならないことが起きてしまった。3月19日のTBS「報道特集」、金平さんのベラルーシ、ルカシェンコ大統領への取材。恐ろしい緊張感。街での一般人への取材。人々の苦悩が滲み出る。凄いとしか言いようのない報道だった。地上波TVはほぼ見ないけど、これだけは見るようにしている。  外出を控えることが続く中、自転車で5分の所にある世田谷文学館での「谷口ジロー展」に行った。ボリューム満点。圧倒される。もちろん知っている漫画家だが、熱烈に読んでいたというわけではない。週刊漫画誌で『青の戦士』を読んだことがあったような。そして10年以上前か『孤独のグルメ』の単行本を買ったくらい。最近『孤独のグルメ』を録画して観てたので、その勢いで行った。寄せられた著名人コメントでは、『孤独のグルメ』主演の松重豊さんのものが印象深かった。「谷口さんの絵はリアリティーの中に気品がそそり立っていて、そこに実写で立ち向かうにはかなりの覚悟が要りました。細部に至るまで手が抜けない作業を自らに課すことになったのは、良い意味で谷口さんの呪縛に他なりません。」。感想を述べたり、批評する言葉を紡ぎだすのは苦手で、人の言葉に納得するしかないのだが、「気品がそそり立っていて」というところに、全くそうだと思った。  そしていつものように怒涛のように本が出版されるわけで、Twitterフォローの方々の貴重な情報によりいくつか買う。『治療文化論』(中井久夫著/岩波現代文庫)。落ち着いた文体と言うのだろうか、心の中がシーンと静かになり、人間の心(心の病)をどうとらえるか,ということを素人にも考えさせてくれる。スピノザ関連では『スピノザ 人間の自由の哲学』(吉田量彦著/講談社現代新書)を読む。とても良かった。  『エチカ』の理性が共通概念で、それによる認識が第2種の認識ということ、と理解してるんだが(いいかしら?)、理性というものは最初から備わっているけど、それを使用することが難しいのか、などなど、今までなんかよくわからなかった。この本を読んで、なるほどなと改めてわかったように思えた。超抜粋だけど「理性は、人間の初期装備ではないのです」(p.287)。「そもそもスピノザは理性を・・・適切な訓練を受ければ誰でも身に付けられるような能力とも考えていません」(p.311)。「こうして人間のうちに後天的に形成される十全な観念の一大ネットワークこそ、スピノザの理性と呼ぶものであり、・・・」(p.323)「理性とは本質的に、受け身のあり方を事後的に能動的なあり方へと修正する事後処理の装置であり、・・・要するに、一発食らってからでないと作動しないのが理性なのです」(p.327)とあった。ふーむ、経験を“認識”する、出来る限り共通概念に沿って。そうすると段々と第2種の認識が形成されてくる、ということか・・・。ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』(平凡社ライブラリー)、共通概念の項に「<理性>がいかに述べるような二通りの仕方で定義されるのもそのためであり、これは、人間が生まれながらに理性的なのではないことを、いかにしてそうなるのかを、示している」(p.105)。理性的になっていく、ってことが書いてあるじゃないか。読み飛ばしてるなあ。いや、そもそも何を読み取ろうとしてるたんだ?そんな僕に吉田量彦氏の本が、スピノザの<理性>について輪郭をはっきりさせてくれたのは嬉しい。しかし、ここには観念の観念(意識)というものを考えておかないと混乱することは間違いない。そんなことを考えてしまっていたら、國分功一郎氏が3/21「月夜(げつよる)サイエンス」という催しで「スピノザから考える意識の問題」というテーマでお話しされるらしい。興味深い。。。  最近出たものでは『現代思想入門』(千葉雅也著/講談社現代新書)は、超注目されてる本。本屋さんでは続々特集が組まれてる模様。「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになります。単純化できない現実の難しさを、以前より「高い解像度」で捉えられるようになるでしょう。」(p.12)。実践の書!ドゥルーズの『差異と反復』からの引用、それをどう読むかの解説!嬉しいなあ。また開く勇気をもらう。『なんでも見つかる夜に、心だけが見つからない』(東畑開人/新潮社)も良かった。というかこれも実践の書。心の中に引く補助線。心について考える。少しでも考えられるようにする、こと。人と人について。自分と人の心について。人と社会、時代、状況。 (一般人に読みやすいようにという、細心の注意を払って書かれた本たちなので、さらっとまずは読んだけれど、何度も読んで実践に繋げねば、と思う。)  読んだ本は結局そのあたりを考えさせる本ばかりなのかもしれない。として、僕はなんでそれらを考えたいのか。。。前回から、いやずっとかな、そのあたりをぐるぐる回ってるような気がするなあ。年を重ねても、いつも身も心も大海に浮かぶ小舟のままだ。
2022/01/23
 2か月というのは、短いような長いような。それにしてもまたいろんなことがあった。そうヤクルトスワローズが日本一になった!コロナが収束したように思えたので帰省した。と思ったら昨日で東京1万人越え!まだ増える様子。悲しすぎる背景の事件の数々。統計偽装。年金支給額は0.4%ダウンというニュース!あまりにひどいではないか。国民年金は最高でも6万くらいだから、それだけで暮らせるわけもなく。それなのになんちゃらスライドの理由で下げるという・・・。日本も終わりだと思わざるを得んね。先日の電車でサラリーマンが読んでいた日経の一面には円の実力は30年前位になったという見出し。『人新生の資本論』(斎藤幸平著)が45万部突破ということだから、多くの人が危機感を持ってることは間違いない。  コロナで引きこもり状態になるので、本もいくつか読む。國分先生の『暇と退屈の倫理学』が文庫になった。ひとりで考えることへの導きの書だ。『ドゥルーズ 内在性の形而上学』(山内志朗著/講談社選書メチエ)はとても面白い。一度読んだ後に何度も開きたくなる。“存在の一義性”って途方もない思想なのね。「スピノザは存在の一義性を否定している。」(P.23)!?なんと!以前、なんとなくで書いたことに赤面する。ええっ、そんなに途方もない考えなのか、とビビってしまい、「存在の一義性 ヨーロッパ中世の形而上学」(ドゥンス スコトゥス 著、八木 雄二翻訳/知泉学術叢書 )を買ってしまう。この本高いけど、なんかデザインもいいと思っていた。ああ、このなんちゅうかミーハーで、いまだ見栄っ張りで、素人がちょびっと考えたいと思う、いじましさかな。  僕はそんな奴だから『ドゥルーズ 内在性の形而上学』の中にあるこの文章は面白かった「『差異と反復』の深度は並大抵のものではない。息を止めて深い底にまで潜り、読者は息が続かずもう我慢できないところまで来ても、さらに潜り続けようとする。あの耐えられない深度の継続こそ、壮年期のドゥルーズの姿だと思う」(P.30)『差異と反復』も見栄とミーハー心で読んでみるものだから当然全く読めてない。形容するなら、潜れないので水面に浮いたままだ。または潜ろうと思うけど、すぐに苦しくなって10秒持たずに水面へ。そして深い眠りの海へ・・・。てなところ。  最近、『精神と自然』(グレゴリー・ベイトソン著、佐藤良明訳/岩波文庫)を読み始めたが、P.57あたりから「現在の前提の是非を問い、非ならば破棄して新しい前提をつくるところに科学的思考の目標がある。・・・前提の組み替えにあたっては、自分たちがいかなる前提を基盤にしているかを意識すること、そしてそれを言葉で把握できることが、不可欠とは言わぬまでも、望ましいのは明らかである。」。P.58に「自分の拠って立つところが誤っている可能性に意識が及ぶことのない人間は、ノウハウしか学ぶことができない」とあった。  科学の世界では前提をパラダイムというんだっけ?それがほかの分野にも広がった言葉でしたか・・・。構造主義とか、エピステーメーとかも近いのかな。ドゥルーズのアレンジメントも入れていいですかね。いや違うんだろうけどまあいいや。なんかこう、自分が考える、いや考えるというより、感情の方向性を決めてる前提のようなものがあるんじゃないかと。野球が面白い、スワローズ勝って嬉しい!コロナは風邪じゃなかろう。引きこもろう。年金0.4%ダウンだとー!(怒)とか。『暇倫』は消費と浪費の違いが書かれてあったけど、自分の消費の癖とか。ドゥルーズをわからんのに読んでしまおうとするその欲望とか・・・。  前提・・・。個人の欲望は精神分析的に探るか。しかしその個人も社会の制度やら習慣をベースとした環境で生きてきたし生きてる。生きられる前提には人は地球がある。生きる前提としての自然。人が生まれる前からある存在。スピノザの「神即自然」に思いを馳せる。それがこれ以上遡れない前提なのかな・・・。『人新生の資本論』のテーマは大事だと思うこの頃であった。
2021/11/20
 この2か月の間にはいろいろなことがあったように思える。いつも何かが起こっているのだろうけど、結構自分にとってはなかなか色々あった2か月だったということだろう。...

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