2020/05/13
 外出を控えるようになって一か月が経つ。録画した映画を観る、本を読む、酒を飲む、現政権への不満、などが確実に増えてきた。そんな状況なのでネットや小さな書店で本を買い、積読状況にも拍車がかかる。...
2020/04/12
 コロナウイルス蔓延防止のための自粛要請により、自宅に籠る時間が多くなった。録画した映画を観る時間も増えた。ここのところ、『バーフバリ』1,2にはまってしまい、特に2を繰り返し観ている。しかもある部分は何度も。それは、バーフバリが奴隷戦士カッタッパと民衆のことをより深く知るため、素性を隠しながらの旅の途中で、クンタラ王国の王の妹デーヴァセーナに出合ったところからだ。ここから、バーフバリとカッタッパが、クンタラ王国に突如攻め入る何万という賊軍ピンダリをあっという間に打ち負かし、素性が明かされるまで。  盗賊を倒すデーヴァセーナの剣技と美貌に惚れ、彼女もバーフバリに一目で好感を持つ(既に好きになっている、と思う。一目ではなく、もう少し後かもしれないが)。しかし、あほで武術も知らん男と侍従役のカッタッパに紹介されて、半信半疑。まあガタイもいいから、鍛えれば戦士になるんじゃないかと城に住まわせる。根はいいが小心者で武技も下手な、デーヴァセーナの従兄クマラが指南役。ところがそのクマラが突如すごい活躍を見せる。傍にバーフがいる時に。そしてバーフ達を怪しむデーヴァセーナ。この辺で、彼女はバーフを既に好きなのだが、あほじゃなくて好きな相手としてふさわしい人であってほしいという願いを込めた表情。デーヴァセーナ役のアヌーシュカ・シェッティがすんばらしい。  そうこうするうちに、突如賊軍ピンダリが深夜に攻め込む。デーヴァセーナの前にも続々と襲いかかる敵。弓矢で一人応戦するが、もはや絶体絶命。その時である。後ろから3本の矢が同時に飛んできて、襲いかかる寸前の敵を倒す。この時の映像がとても好きなんです。背後からデーヴァセーナを撮っているので、彼女は矢が後ろから飛んできて敵に刺さったことしかまだわからない。ここで彼女は驚いて一瞬動かなくなる。どうして!まさか!そしてひょっとして!この動揺と期待!この時カメラのピントがその動揺と同期するように(させていると思う)、ピントが一瞬ほんの少しぼけてまた合う(2度くらいあるか?)。すごいと思った(こういうテクニックはあるんだろうけど、素人なので初めて気になりました)。そして振り向くと、やっぱり!飛びながら3本の矢を同時に放つバーフバリが!そして次々と3本の矢を放ちながら敵に向かって進み、彼女のそばを過ぎる。この時の彼女の、バーフを目で追い続ける姿も泣ける。そして、バーフが振り返り、彼女に向けて3本の矢を放つ。それは彼女の頭をかすめ、1本はイヤリングを鳴らして後ろの敵を倒す。彼女は微動だにせず大きな目でほんの少しにこやかにバーフバリを見つめる。ここを言葉にすれば、「やっぱりあなただった。私が思ってた通りの人だった。好きになったのは間違いじゃなかった。」。そして完全に愛したのである。  長々書いた。小説や物語を読まない最近だが、昔は読んでいた。そのせいだろうか。何かこの一連のシーンは英雄物語の典型のような気がして懐かしんでいるのか。あほな男が実はすごい、という設定はこちらの願望もあるからなのか?わかりません。  バーフバリが惚れ、デーヴァセーナが惚れ返すこの一連のシーンはわずか20分くらいだと思うが、その筋書きとカメラ、そして音楽は、本当に見事だなあと思いました。それにしても全編そうなのだがカット数もめちゃくちゃ多い。カット数が多く、1シーンの余情が少ないから、多分こちらの感情も早く高ぶるのかもしれない。いやきっと早く高ぶるように編集している。まとめるようですが、映画の凄いところを覗いてしまったような気がしました。コロナウイルスを忘れさせる映画のひとつです。
2020/03/11
 宇野邦一著『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)を読んでいる(途中ですが)。面白いです。難しいドゥルーズの哲学に歯が立たない者の強力な助けになります。最初の方に「何を構造主義として認めるか」について触れていたので、これを読んでみた(『ドゥルーズ・コレクションⅠ』(河出文庫)にある)。この文章も僕にはとても難しいので、多分とんちんかんな感想と思うんだが、静的な構造が考えられるとして、それがどう現れるのか、現れるには何が考えられなければならない、みたいなことが(も)書かれてるんかな・・・。勝手にそう思っているだけで、確認するための読み返しは難しいので躊躇してます。で、想像を膨らませて、ドゥルーズさんは、哲学が絵に描いた餅とならず(その絵も中々鑑賞さえ難しいのですが)、生きるこの現実にどう接続できるのか、接続できてなんぼじゃ、みたいなことを(も)考えてたのかな。今度読み直したら、今の感想に赤面するんだろうなあ。  しかし、哲学解説本は世の中にはたくさんあるけど、僕にはつまらないものだ。この哲学者はこんなことを考えていた、あの哲学者はこうだった、みたいなのをを読んでも、読んでる自分は変わらない。知識が多少増えるかもしれないけれど、あの哲学はこうで、あの哲学があーで、みたいなことを語るのでは、語る自分が変わらないではないか、とようやく思ってきた。そりゃ退屈だ。しかし、自分が変わる、変わりつつある、変わった、ということを当の自分は意識することができるのかな。その意識の在り方を変える、観察している(と思っている)自分の観察の仕方を変えるのが重要なポイントだと思うが。世の中の自己啓発本というのは、全く読んだことがないのですが、どんな指南をしてるのかな。それとは違うけど、マインドフルネスはその意識の変化を促すんだろう。できてませんが。とはいえ、変わろうとする意識は必要なんだろう。千葉雅也氏の『勉強の哲学』がついに文春文庫となって出た。これは習慣に無意識な自分を変えて、楽しく生きる方法を説く活気的な本だ、と思う。実践の書だ。  実践には頭と身体が伴う。身体が伴うということが重要だ。というと、またどーしてもスピノザを考える。『エチカ』は実践の書なので、『エチカ』は心身平行論の哲学で、デカルトに異を唱えたもので、また、スピノザの神に対する考えが当時のあらゆる信仰者から非難を浴び、200年位経ってようやく脚光を浴び始めた、と解説するだけでは意味がない。神=自然=実体というのは途方もない思考だ。神=自然=実体は、無限の属性で表現されそれが変状し、個々の存在として現れる。人は、その存在を思惟と延長という属性によって知る。人も思惟と延長の属性の変状だ。思惟属性の変状である観念と、延長属性の変状である身体は、存在というものをそれぞれの属性によって表現したものだから、おんなじものを別表現してるに過ぎない。だから存在そのものとして捉える。僕が書くとどーもしつこいだけでわかりづらいが、なんかすごくないですか。我々が存在する前に世界はある、つまりは我々が世界内で単に存在として生きている、ということは紛れもない事実としてあることが、大前提になっている。この前提を受け入れないわけにはいかない。そしてこの事実を受け入れることから考えていったらこうなるし、こう生きるのが気持ちいいんじゃないか、というのが『エチカ』の実践のすすめ。我々が世界内存在であることを受け入れた時に、ではどう生きるかという(頭で、例えば世界をコントロールできる、と考えても世界内存在なのだからできるわけない、というのも前提から出てくるし、つまりは超越的にはなれないということも)。これは古びない問題だ。  てなことを考えると、飛びますが、例えば資本主義というのは無理がある、ので見直さねばならない、と結論される・・・のではなかろーか、などなども哲学の実践的思考であろうか。  今回は、ではなかろーか的なことばかりで、まだるっこしいです。まださまよってます。
2020/02/12
 2月9日(日)成城ホールにて開催された「第13回春の音コンサート」に行ってきました。高次脳機能障害の方々が、日々練習をして歌や演奏を披露する場。バイオリンを弾く男性は、右脳の損傷により、左麻痺で左半側空間無視(左側が良く見えない)、地誌的障害(道に迷うなど)のある年配の方。プロのフルート奏者だった男性は、左脳の損傷(だと思う)により、右麻痺が残り(高次脳機能障害は別にあるはず)、ピアノで自作曲を弾かれた。失語症の方々が群読(みんなで詩を読み上げる)を披露されたり。カラオケが好きで、素晴らしい歌声を披露する女性。などなど、熱演で盛り上がった。  カラオケ好きな女性は、失語症の特徴だと思うが、歌は歌えても、上手く喋れない。何かを伝えようとして「うーん、えーと」を繰り返される。3分以上繰り返されたであろうか。ケアスタッフがギター伴奏者なのだが、次の言葉をずーっと待っている。時に相槌をうったり、ちょっと促してみたり・・・。それでも「うーん、えーと」は続く。観客、ボランティア・スタッフは、高次脳機能障害の失語症状況をご存じで、淡々と待っている。特にみんな焦ってもいない感じ。しばらくして、伴奏者が何かを汲み取って声をかける。彼女はそれに反応してうなづく。そして再び歌は開始された。さすがだなーと思いました。  失語症と言っても様々で、聞く、読む、話す、書く、などについて、これはできるけどそれはできない。これもあれもできない。など本当に様々な症状で千差万別だ。高次脳機能障害自体が、脳損傷の場所によって様々な症状が出て、人によってすべて違う。脳損傷の位置が同じなら大体同じ症状が出るとはいえ、損傷もやはり違うし、人の脳は同じものはないし、性格も違うわけなので、違うわけですね。  高次脳機能障害の一つの症状としての失語症も、単に失語症のみを考えればよいのでもないし、遂行機能障害、記憶障害などが影響しているだろうし。。。脳損傷による症状は超複雑だ。  とはいえ、明確に失語という現象があるので、失語症の方は、様々になんとか回復しようと努力される。言語聴覚士にリハビリのアドバイスを受け、同じ失語症の仲間で話せる練習をしたり。  自分も高次脳機能障害の方の支援を少しだけしていますが、失語症に対して、言語聴覚士ではない我々が、少しでも役に立つことはないのだろうか、と思うところです。東京都が「失語症者向け意思疎通支援者養成講習会」を実施してるのではありますが、これがなかなかハードスケジュールで難しい!  もちっと手ごろな手段はないもんでしょうか(甘いといわれそう!)。
 昨年12月、書店でフラフラしているときに、ふと目に入ったのが『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 田島葉子訳(ポプラ社))だ。早速買って読んでみた。スピノザの生き方と哲学がとても共感をもって解りやすく書いてある思う。翻訳もいいのだろう。“自由な思想家”の章の最後の文章に「論証とは、精神の目でしか見えないものを明らかにすることである」とあって、本書の原文では「証明(論証)は精神の目」とあった。上野修のデカルト、ホッブス、スピノザを取り上げた本のタイトルに『精神の目は論証の目』というのがある。『エチカ』第5部定理23の備考にある文章なのだけれど、岩波文庫の畠中尚志訳の文章を読んでもよくわからないままだ(よくわからないところは他にもたくさんあるけど)。 田島葉子氏が上記のように翻訳されたことで、なるほどなーと思った。毎度のように自分勝手に思ったところだけど、証明を進めていって開かれる思考というのは、日常、感情や惰性的な考えは偏見や癖に傾いているのに、それさえも気づかない。けれど、論証というのは、自分の普段見られない(自分の見方を見るというのは中々難しい、というか普通出来ないので)、世界の姿を明示してくれる、ということなんだろう。さらにここの備考は、精神の目は神(実体=自然)の必然の運動と一致しているものなのよ、というようなことも言っていると(勝手に)思っているのだけれど、まだピンときてない。ので、しばし熟成を待ちます。  最近改めて、『エチカ』を散文的に読むのでもすごいのだけれど、スピノザがこの1部から5部までの順で良く読んでみて、上記の論証ということからもそうなんだけれど、随所で『エチカ』の文章に感動するのであった。  それぞれの存在というのは神=実体の変状だから、欠陥品などいうものはないわけで。第4部序言(岩波文庫P.13)に「最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。・・・むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。」とある。すべての物が同等なのだと、いうのを感覚的に言うのはできるし、そりゃそうだなと思うこともできるんだけれど、スピノザはその根拠として、すべて存在は神=実体=自然の変状だからというのを前提としているので、そうなるのは当然のことなんだ、となる。これは単に感情的に思うことではなく、それが当たり前という、実に理性的な思考になる。(「この点においては」という点を読み落としてるかもしれないけれど)  では、その前提としての神=実体=自然を考えるんだけれど、第1部で、それをスピノザは存在を生み出すもの、としていて、それ以上先に辿れないところまで行ったところから始めているので、進み方が揺るがない。  スピノザは神に酔える哲学者と言われたこともあるようだが、この超越的ではない、内在する神(自然)、ということから始める、というのを、スピノザのように内面化する、ということに思いを馳せるのもよいのではなかろーかと思う新年の始まりであった。  今回はだらだらと思うことを書いてしまい、また今度、考えが別様にまとまることがあるかもしれない。
2019/12/10
 12月8日(日)に世田谷区役所中庭、区民会館ホールで開催された「区民ふれあいフェスタ」に行ってみた。39回もやっているのに知らなかった。「障害のある人もない人もせたがやで共に生きる」というのがサブタイトル。twitterで、たまたまどなたかの告知されているのを見たので知った次第で、世田線にゆられて行く。...
2019/11/11
 昨日10日(日)、新大久保駅と大久保駅の間あたりにある、ネパール料理店「ナングロ」に行ってきた。その前日、知り合いのネパール人の案内でランチを食べたがとても美味しくて、また行ってみた次第。 世間は何やらパレードで盛り上がっていた(?)らしいが、全く関心もなく出かけたわけです。...
2019/10/10
 台風19号が大変な強さでやってくる。関東を直撃のようだ。ということで、雑居まつりは10月13日が14日に延期される予定。その日は出店するにしても私が午前中しか参加できないので、午後はスタッフにおまかせすることにしよう。個人的にはラブ・エロ・ピースを見られないのは残念。...
2019/09/10
 10月13日(日)に世田谷羽根木公園で雑居まつりがあります!第44回!すごい。数年前、ご縁あって知ることになったこの祭り。様々な屋台とステージでの演奏、パレードなんぞもあって盛り上がる。前にも書いたかもしれないけど、初めて行ったときに、たまたま「ラブ・エロ・ピース」というグループの演奏を見て衝撃を受けた。ネットではアウトサイダー・パンク・フォーク・バンドとあった。メンバーは、重度障害で車椅子生活でありつつ、三軒茶屋のcafe「ゆうじ屋」の店主、ケーキを売りに時に街に出没される、世田谷では既にかなり有名な実方裕二さん。そして女装シンガー、菅原ニョキさん。今は上町にある就労継続支援B型作業所 「ハーモニー」の施設長、新澤克憲さん(「幻聴妄想かるた」を出された方)や、車椅子生活の障害者の方が2名加わっている。ニョキさんの透明な歌声とゆうじさんの絶叫が羽根木公園に響き渡る!それを聞いてから、その後雑居まつりに行ったときは必ず聞くことにしている。様々に障害を持つ人も、大人も子供も一緒になって盛り上がる学園祭のような不思議な祭り。なるべくごみを出さないというスローガンを掲げてるので、食器は自前を用意する。以前、自前のでかいタッパーを用意して、ある焼きそば屋台に行くと、サービスしてくれて特盛にしてくれて驚いた!ペヤング焼きそばの特大みたいな量!  そんな雑居まつりに昨年から出店し、今年も店名“こんぽあん”として出すことにした。その第2回実行委員会打合せが9月7日(土)にあり、参加台帳を提出し、いよいよ動くことに。高校卒業して上京している同級生の女性(当時、皆のあこがれの、僕にとってはマドンナで、もちろん今でも)にお声がけしたら、参加してくれると!しかも超やる気!こりゃめちゃめちゃ嬉しいではないか!売り物は、浜松根洗作業所で障害を持つ方々が作るクッキー(これがあまりに美味しくて、巷で評判。某大手IT企業のイベントが東京ドームで会った時も、このクッキーが希望されたほど)、DVD、Tシャツ、そして今回はマドンナのお力で手作り雑貨(バッグやアクセサリーなどなど)や本も加わる。ついでに自主上映の窓口もしてるから、今扱っている「いろとりどりの親子」の案内もしようと思っている。  お店で売り子をやりつつ、「ラブ・エロ・ピース」は聞いて、特盛焼きそばを食べる。楽しみである。  昨年は秋なのにとても暑くてかなり日に焼けた。今年は果たしてどうなるのであろうか。またお祭り後に報告したいです。
2019/08/11
 まずはれいわ新選組が二人の障害者を国会に送り込むことができ、そして政党になったというのは嬉しいことだ!応援していこう。...

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