2020/03/11
 宇野邦一著『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)を読んでいる(途中ですが)。面白いです。難しいドゥルーズの哲学に歯が立たない者の強力な助けになります。最初の方に「何を構造主義として認めるか」について触れていたので、これを読んでみた(『ドゥルーズ・コレクションⅠ』(河出文庫)にある)。この文章も僕にはとても難しいので、多分とんちんかんな感想と思うんだが、静的な構造が考えられるとして、それがどう現れるのか、現れるには何が考えられなければならない、みたいなことが(も)書かれてるんかな・・・。勝手にそう思っているだけで、確認するための読み返しは難しいので躊躇してます。で、想像を膨らませて、ドゥルーズさんは、哲学が絵に描いた餅とならず(その絵も中々鑑賞さえ難しいのですが)、生きるこの現実にどう接続できるのか、接続できてなんぼじゃ、みたいなことを(も)考えてたのかな。今度読み直したら、今の感想に赤面するんだろうなあ。  しかし、哲学解説本は世の中にはたくさんあるけど、僕にはつまらないものだ。この哲学者はこんなことを考えていた、あの哲学者はこうだった、みたいなのをを読んでも、読んでる自分は変わらない。知識が多少増えるかもしれないけれど、あの哲学はこうで、あの哲学があーで、みたいなことを語るのでは、語る自分が変わらないではないか、とようやく思ってきた。そりゃ退屈だ。しかし、自分が変わる、変わりつつある、変わった、ということを当の自分は意識することができるのかな。その意識の在り方を変える、観察している(と思っている)自分の観察の仕方を変えるのが重要なポイントだと思うが。世の中の自己啓発本というのは、全く読んだことがないのですが、どんな指南をしてるのかな。それとは違うけど、マインドフルネスはその意識の変化を促すんだろう。できてませんが。とはいえ、変わろうとする意識は必要なんだろう。千葉雅也氏の『勉強の哲学』がついに文春文庫となって出た。これは習慣に無意識な自分を変えて、楽しく生きる方法を説く活気的な本だ、と思う。実践の書だ。  実践には頭と身体が伴う。身体が伴うということが重要だ。というと、またどーしてもスピノザを考える。『エチカ』は実践の書なので、『エチカ』は心身平行論の哲学で、デカルトに異を唱えたもので、また、スピノザの神に対する考えが当時のあらゆる信仰者から非難を浴び、200年位経ってようやく脚光を浴び始めた、と解説するだけでは意味がない。神=自然=実体というのは途方もない思考だ。神=自然=実体は、無限の属性で表現されそれが変状し、個々の存在として現れる。人は、その存在を思惟と延長という属性によって知る。人も思惟と延長の属性の変状だ。思惟属性の変状である観念と、延長属性の変状である身体は、存在というものをそれぞれの属性によって表現したものだから、おんなじものを別表現してるに過ぎない。だから存在そのものとして捉える。僕が書くとどーもしつこいだけでわかりづらいが、なんかすごくないですか。我々が存在する前に世界はある、つまりは我々が世界内で単に存在として生きている、ということは紛れもない事実としてあることが、大前提になっている。この前提を受け入れないわけにはいかない。そしてこの事実を受け入れることから考えていったらこうなるし、こう生きるのが気持ちいいんじゃないか、というのが『エチカ』の実践のすすめ。我々が世界内存在であることを受け入れた時に、ではどう生きるかという(頭で、例えば世界をコントロールできる、と考えても世界内存在なのだからできるわけない、というのも前提から出てくるし、つまりは超越的にはなれないということも)。これは古びない問題だ。  てなことを考えると、飛びますが、例えば資本主義というのは無理がある、ので見直さねばならない、と結論される・・・のではなかろーか、などなども哲学の実践的思考であろうか。  今回は、ではなかろーか的なことばかりで、まだるっこしいです。まださまよってます。
2020/02/12
 2月9日(日)成城ホールにて開催された「第13回春の音コンサート」に行ってきました。高次脳機能障害の方々が、日々練習をして歌や演奏を披露する場。バイオリンを弾く男性は、右脳の損傷により、左麻痺で左半側空間無視(左側が良く見えない)、地誌的障害(道に迷うなど)のある年配の方。プロのフルート奏者だった男性は、左脳の損傷(だと思う)により、右麻痺が残り(高次脳機能障害は別にあるはず)、ピアノで自作曲を弾かれた。失語症の方々が群読(みんなで詩を読み上げる)を披露されたり。カラオケが好きで、素晴らしい歌声を披露する女性。などなど、熱演で盛り上がった。  カラオケ好きな女性は、失語症の特徴だと思うが、歌は歌えても、上手く喋れない。何かを伝えようとして「うーん、えーと」を繰り返される。3分以上繰り返されたであろうか。ケアスタッフがギター伴奏者なのだが、次の言葉をずーっと待っている。時に相槌をうったり、ちょっと促してみたり・・・。それでも「うーん、えーと」は続く。観客、ボランティア・スタッフは、高次脳機能障害の失語症状況をご存じで、淡々と待っている。特にみんな焦ってもいない感じ。しばらくして、伴奏者が何かを汲み取って声をかける。彼女はそれに反応してうなづく。そして再び歌は開始された。さすがだなーと思いました。  失語症と言っても様々で、聞く、読む、話す、書く、などについて、これはできるけどそれはできない。これもあれもできない。など本当に様々な症状で千差万別だ。高次脳機能障害自体が、脳損傷の場所によって様々な症状が出て、人によってすべて違う。脳損傷の位置が同じなら大体同じ症状が出るとはいえ、損傷もやはり違うし、人の脳は同じものはないし、性格も違うわけなので、違うわけですね。  高次脳機能障害の一つの症状としての失語症も、単に失語症のみを考えればよいのでもないし、遂行機能障害、記憶障害などが影響しているだろうし。。。脳損傷による症状は超複雑だ。  とはいえ、明確に失語という現象があるので、失語症の方は、様々になんとか回復しようと努力される。言語聴覚士にリハビリのアドバイスを受け、同じ失語症の仲間で話せる練習をしたり。  自分も高次脳機能障害の方の支援を少しだけしていますが、失語症に対して、言語聴覚士ではない我々が、少しでも役に立つことはないのだろうか、と思うところです。東京都が「失語症者向け意思疎通支援者養成講習会」を実施してるのではありますが、これがなかなかハードスケジュールで難しい!  もちっと手ごろな手段はないもんでしょうか(甘いといわれそう!)。
 昨年12月、書店でフラフラしているときに、ふと目に入ったのが『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 田島葉子訳(ポプラ社))だ。早速買って読んでみた。スピノザの生き方と哲学がとても共感をもって解りやすく書いてある思う。翻訳もいいのだろう。“自由な思想家”の章の最後の文章に「論証とは、精神の目でしか見えないものを明らかにすることである」とあって、本書の原文では「証明(論証)は精神の目」とあった。上野修のデカルト、ホッブス、スピノザを取り上げた本のタイトルに『精神の目は論証の目』というのがある。『エチカ』第5部定理23の備考にある文章なのだけれど、岩波文庫の畠中尚志訳の文章を読んでもよくわからないままだ(よくわからないところは他にもたくさんあるけど)。 田島葉子氏が上記のように翻訳されたことで、なるほどなーと思った。毎度のように自分勝手に思ったところだけど、証明を進めていって開かれる思考というのは、日常、感情や惰性的な考えは偏見や癖に傾いているのに、それさえも気づかない。けれど、論証というのは、自分の普段見られない(自分の見方を見るというのは中々難しい、というか普通出来ないので)、世界の姿を明示してくれる、ということなんだろう。さらにここの備考は、精神の目は神(実体=自然)の必然の運動と一致しているものなのよ、というようなことも言っていると(勝手に)思っているのだけれど、まだピンときてない。ので、しばし熟成を待ちます。  最近改めて、『エチカ』を散文的に読むのでもすごいのだけれど、スピノザがこの1部から5部までの順で良く読んでみて、上記の論証ということからもそうなんだけれど、随所で『エチカ』の文章に感動するのであった。  それぞれの存在というのは神=実体の変状だから、欠陥品などいうものはないわけで。第4部序言(岩波文庫P.13)に「最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。・・・むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。」とある。すべての物が同等なのだと、いうのを感覚的に言うのはできるし、そりゃそうだなと思うこともできるんだけれど、スピノザはその根拠として、すべて存在は神=実体=自然の変状だからというのを前提としているので、そうなるのは当然のことなんだ、となる。これは単に感情的に思うことではなく、それが当たり前という、実に理性的な思考になる。(「この点においては」という点を読み落としてるかもしれないけれど)  では、その前提としての神=実体=自然を考えるんだけれど、第1部で、それをスピノザは存在を生み出すもの、としていて、それ以上先に辿れないところまで行ったところから始めているので、進み方が揺るがない。  スピノザは神に酔える哲学者と言われたこともあるようだが、この超越的ではない、内在する神(自然)、ということから始める、というのを、スピノザのように内面化する、ということに思いを馳せるのもよいのではなかろーかと思う新年の始まりであった。  今回はだらだらと思うことを書いてしまい、また今度、考えが別様にまとまることがあるかもしれない。
2019/12/10
 12月8日(日)に世田谷区役所中庭、区民会館ホールで開催された「区民ふれあいフェスタ」に行ってみた。39回もやっているのに知らなかった。「障害のある人もない人もせたがやで共に生きる」というのがサブタイトル。twitterで、たまたまどなたかの告知されているのを見たので知った次第で、世田線にゆられて行く。...
2019/11/11
 昨日10日(日)、新大久保駅と大久保駅の間あたりにある、ネパール料理店「ナングロ」に行ってきた。その前日、知り合いのネパール人の案内でランチを食べたがとても美味しくて、また行ってみた次第。 世間は何やらパレードで盛り上がっていた(?)らしいが、全く関心もなく出かけたわけです。...
2019/10/10
 台風19号が大変な強さでやってくる。関東を直撃のようだ。ということで、雑居まつりは10月13日が14日に延期される予定。その日は出店するにしても私が午前中しか参加できないので、午後はスタッフにおまかせすることにしよう。個人的にはラブ・エロ・ピースを見られないのは残念。...
2019/09/10
 10月13日(日)に世田谷羽根木公園で雑居まつりがあります!第44回!すごい。数年前、ご縁あって知ることになったこの祭り。様々な屋台とステージでの演奏、パレードなんぞもあって盛り上がる。前にも書いたかもしれないけど、初めて行ったときに、たまたま「ラブ・エロ・ピース」というグループの演奏を見て衝撃を受けた。ネットではアウトサイダー・パンク・フォーク・バンドとあった。メンバーは、重度障害で車椅子生活でありつつ、三軒茶屋のcafe「ゆうじ屋」の店主、ケーキを売りに時に街に出没される、世田谷では既にかなり有名な実方裕二さん。そして女装シンガー、菅原ニョキさん。今は上町にある就労継続支援B型作業所 「ハーモニー」の施設長、新澤克憲さん(「幻聴妄想かるた」を出された方)や、車椅子生活の障害者の方が2名加わっている。ニョキさんの透明な歌声とゆうじさんの絶叫が羽根木公園に響き渡る!それを聞いてから、その後雑居まつりに行ったときは必ず聞くことにしている。様々に障害を持つ人も、大人も子供も一緒になって盛り上がる学園祭のような不思議な祭り。なるべくごみを出さないというスローガンを掲げてるので、食器は自前を用意する。以前、自前のでかいタッパーを用意して、ある焼きそば屋台に行くと、サービスしてくれて特盛にしてくれて驚いた!ペヤング焼きそばの特大みたいな量!  そんな雑居まつりに昨年から出店し、今年も店名“こんぽあん”として出すことにした。その第2回実行委員会打合せが9月7日(土)にあり、参加台帳を提出し、いよいよ動くことに。高校卒業して上京している同級生の女性(当時、皆のあこがれの、僕にとってはマドンナで、もちろん今でも)にお声がけしたら、参加してくれると!しかも超やる気!こりゃめちゃめちゃ嬉しいではないか!売り物は、浜松根洗作業所で障害を持つ方々が作るクッキー(これがあまりに美味しくて、巷で評判。某大手IT企業のイベントが東京ドームで会った時も、このクッキーが希望されたほど)、DVD、Tシャツ、そして今回はマドンナのお力で手作り雑貨(バッグやアクセサリーなどなど)や本も加わる。ついでに自主上映の窓口もしてるから、今扱っている「いろとりどりの親子」の案内もしようと思っている。  お店で売り子をやりつつ、「ラブ・エロ・ピース」は聞いて、特盛焼きそばを食べる。楽しみである。  昨年は秋なのにとても暑くてかなり日に焼けた。今年は果たしてどうなるのであろうか。またお祭り後に報告したいです。
2019/08/11
 まずはれいわ新選組が二人の障害者を国会に送り込むことができ、そして政党になったというのは嬉しいことだ!応援していこう。...
2019/07/07
 参院選に突入した。注目はれいわ新選組だ。山本太郎氏は『1945年の精神』DVDの特典映像でご協力頂いたが、その時の主張と1ミリもずれていない。あの時語って頂いた、政府与党の暴走、貧困問題、奨学金問題、リニア新幹線の問題などは、解決されているどころか、さらに権力が暴走しむしろ悪化つつある。そしてあらたな問題提起は消費税だ。以前ブログに書いたが、消費税は本当に最悪だ。弊社は超零細企業であるが、それでも運営していると消費税というものがいかに中小零細を苦しめるかは身をもってわかる。仮受消費税と仮払消費税の差額が納付すべき消費税となるが、まず課税売上というものは、課税されていると頭ではわかるが、まずは大切な入金として考えるのみであり、税金と分けられているわけではないお金そのものは、原価や販管費に回すことがまずは先決だ。だが、販管費には非課税である給与や社会保険などがあるから、所得税はマイナスでもどうやっても納付すべき消費税は発生する。(この消費税がなんで販管費に計上されるのかもよくわからん。税理士センセにいつも聞き忘れます。)  無論消費税分を転嫁できないなら販売価格はデフレのせいで据え置き、または引き下げせざるを得なければ、同じ入金なのに消費税分は企業の負担が増えているということになる。これはよく言われていることである。これでさらに増税となればお話にならない。逆進性が強いということはもちろんだし、このようなところも大いに問題だと実感している。ダントツに滞納が多い税というのもうなずける。山本太郎氏が消費税0を訴えているが、100%賛成だ。こんなあほな税は即刻やめるべきだ。  消費税で熱くなったが、れいわ新鮮組での立候補者の面々が本当に熱い。東京選挙区に立った創価学会の野原よしまさ氏の主張は学会やら宗教がどうのというよりも、あまりに当然のことを訴えている。比例区の面々ももちろんみんな当事者として今の日本がおかしいではないかと熱く語る。安冨先生は日本の状況は豪華な地獄という。いや全くその通りだ。なんちゅー息苦しい世の中だろーか。もういい加減変わらんといかんでしょう。  ふと『1945年の精神』の特典映像に出て頂いた方々を思い出す。國分功一郎先生宅にお伺いした時、ちょうどあの『中動態の世界』の校正が終わりつつある時期であった(そのように言われていたと思う)。撮影のための公園までの道すがら、わたしのようなただのスピノザファンからの質問にもお答え頂きまして感動。そういえば國分先生に本編のサンプル映像をお渡しする時には、仮題として『1945年の魂』となっていたが、先生から「いや、魂は別のことを想像させるからそのまま精神がよいでしょう」と言われて『1945年の精神』となりました。有難うございました!  宇都宮弁護士へのインタビューは供託金問題に関心を持たせてくれた。松尾匡先生の撮影で立命館大学の研究室にお邪魔したが、その途方もなく熱いレフト1.0~3.0の講義!2カメで臨んだが、僕の素人カメラは全く役に立たず、編集者がえらい苦労した。すみません。  そして社会保障研究が専門である唐鎌直義先生!朝日新聞の記事を見て激しく感じ入ったので、突撃で申し込んでご快諾頂き撮影させてもらった。『1945年の精神』本編中に登場するアナイリン・ベヴァンの動いている姿に感動されていた。それは英国の社会保障も研究されているが故で、そのことをお聞きして本当にお願いしてよかったと思った。唐鎌先生は、日本の社会保障があらゆる分野で脆弱であることをずーっと前から問題視されている。『下流老人』で有名になられた藤田孝典氏や伊藤周平教授なども唐鎌先生からの影響があるのではなかろーか。唐鎌先生の国交労連制作のインタビュー映像を見た時、ユーモラスでありながら、社会保障について厳しくご指摘される姿に惚れたのもお願いした理由ですが。  そもそも、『1945年の精神』DVDを出したいと思ったのは、その前にブレイディみかこさんと國分功一郎先生の対談を下北沢の本屋B&Bで聞いたことからであった。ブレイディさんが「SPIRIT OF '45」の話をされたことが始まりでした!  れいわ新選組は『1945年の精神』本編の主張、そして解説、特典映像にご協力いただいた皆様が主張されていることを実現すべく、まさに当事者の皆さんが立ち上がった!ということで全面的に応援してます。さて参院選の結果は!?
 最近ふと思ったのは、「〇〇せねばならない」「〇〇あるべきだ」的な思考回路で考えていることがほとんどではなかろうか、ということ。もともと考えるのは苦手で、頭の中に言葉が浮かんで、考るというような運動になったのは高校時代以降ではなかろうかと思う。小、中学時代は親から言われるままに生きていたようで(多少の反発もあったとは思うが)、ぼんやり日々過ごしていた。親は子に、世の中はこうなんだから、こうしなさい的なことを言い続ける。こちらは「世の中のこう」というものが正解なんだろうから、その解を出していくのが普通、というような日々。例えばテストとは正解があるもので、その正解を記入すれば良く、とりわけ中間、期末テストは、正解もかなり予測可能となって、〇を得る可能性が高くなる。それで正解を書いて点が良ければそれで日々良しということで済む。つまり、世の中全般には正しいことがあって、それを表現したり、行動するのが良いというように育つ。こうあるのが良い、こうあるべきだ、的なあり方が自然になってくる。  高校時代になると大人びた友達も出てきて、ぼんやりなことに気づかされる。なので、今までは何だったんだ!となる。ここで、自分について考えるようになるのだ。「もっと自分とはなにか考えなければならない」「もっと別の行動をとるべきだ」という思いから、過去に決別し、それまでの友達とも離れ、親には反発し、となってくる。  しかし、もともとどうにも考えるということが苦手なので、考え「ねばならない」、こう考える「べきだ」が基本的な駆動力となっている。ぼんやり時代も、反発時代も、「ねばならない」が基調だ。とはいえ反発時代は考えるのがやっぱり苦手なのでぼんやり遊び呆けているが。  というようなことがつらつら浮かんできたのだが、この「ねばならい」的思考は染み込んでおり、今でもどこかに正解があってそれを探す、見出す、そして世の中の正解に基づいて行動する、という習慣から抜け出てないのではなかろうか、と思う。  話は少々それるが、いわゆるPOSデータなどの分析によって、ユーザーニーズを素早く的確に把握し、一刻も早くユーザーの元に届ける、というような仕組みとは、ユーザーのニーズという正解があって、それを素早く見出し、正解を持つ人を満足させるというこものなのかな。とすると、これも一種の「ねばならない」的なものと言えるような気もする。こういうパターンは実は多いのか?視聴者満足度の高い番組を提供するのが一番で、それがTV局の最も気にする視聴率を上げること、とかも、似たような志向かしら。  しかし、世の中にも、ユーザーの中にも、視聴者の中にも正解はないように思うが・・・。余談的だが、ユーザーニーズ、視聴者ニーズというのを目指すのは、エントロピーが増大してあんまし良くないんでないか。  だから、好きにやろうよ、と言いたいところだが、そういう本人が「ねばならない」的思考だから、「好きに」というのが実は難しい。それにしてもしかし、「ねばならない」的な思考からの解放というのはあるんかな。  「三つのエコロジー」(フェリックス・ガタリ著 平凡社ライブラリー)という本の中に動的編成(agencement)という言葉がある。僕の引用はいいかげんなので信用ならないが、主体とは動的編成されるもので確固たるものがあるというわけではない、とのこと?つまりは「ねばならない」思考も出てくれば、「そうしたい」という思考も、どだい区別つかんものとして混在してるのかな・・・。心の動きをマインドフルに眺めるとなんかわかるかしら。  スピノザ「エチカ」第5部定理31の備考に「・・・精神をあたかも今存在し始めたかのように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、ということである。」とある。ここは精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることを、より一層理解されるには、このように考えるといいよ、という部分。いやーこれはスピノザは体感してるので、さらっと書いてるが、個人的にはとても興味深いところ。あたかも今存在し始めたかのようにある精神・・・。ああ、「ねばならい」「あるべきだ」思考からの解放の瞬間・・・かもしれない。

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