2019/07/07
 参院選に突入した。注目はれいわ新選組だ。山本太郎氏は『1945年の精神』DVDの特典映像でご協力頂いたが、その時の主張と1ミリもずれていない。あの時語って頂いた、政府与党の暴走、貧困問題、奨学金問題、リニア新幹線の問題などは、解決されているどころか、さらに権力が暴走しむしろ悪化つつある。そしてあらたな問題提起は消費税だ。以前ブログに書いたが、消費税は本当に最悪だ。弊社は超零細企業であるが、それでも運営していると消費税というものがいかに中小零細を苦しめるかは身をもってわかる。仮受消費税と仮払消費税の差額が納付すべき消費税となるが、まず課税売上というものは、課税されていると頭ではわかるが、まずは大切な入金として考えるのみであり、税金と分けられているわけではないお金そのものは、原価や販管費に回すことがまずは先決だ。だが、販管費には非課税である給与や社会保険などがあるから、所得税はマイナスでもどうやっても納付すべき消費税は発生する。(この消費税がなんで販管費に計上されるのかもよくわからん。税理士センセにいつも聞き忘れます。)  無論消費税分を転嫁できないなら販売価格はデフレのせいで据え置き、または引き下げせざるを得なければ、同じ入金なのに消費税分は企業の負担が増えているということになる。これはよく言われていることである。これでさらに増税となればお話にならない。逆進性が強いということはもちろんだし、このようなところも大いに問題だと実感している。ダントツに滞納が多い税というのもうなずける。山本太郎氏が消費税0を訴えているが、100%賛成だ。こんなあほな税は即刻やめるべきだ。  消費税で熱くなったが、れいわ新鮮組での立候補者の面々が本当に熱い。東京選挙区に立った創価学会の野原よしまさ氏の主張は学会やら宗教がどうのというよりも、あまりに当然のことを訴えている。比例区の面々ももちろんみんな当事者として今の日本がおかしいではないかと熱く語る。安冨先生は日本の状況は豪華な地獄という。いや全くその通りだ。なんちゅー息苦しい世の中だろーか。もういい加減変わらんといかんでしょう。  ふと『1945年の精神』の特典映像に出て頂いた方々を思い出す。國分功一郎先生宅にお伺いした時、ちょうどあの『中動態の世界』の校正が終わりつつある時期であった(そのように言われていたと思う)。撮影のための公園までの道すがら、わたしのようなただのスピノザファンからの質問にもお答え頂きまして感動。そういえば國分先生に本編のサンプル映像をお渡しする時には、仮題として『1945年の魂』となっていたが、先生から「いや、魂は別のことを想像させるからそのまま精神がよいでしょう」と言われて『1945年の精神』となりました。有難うございました!  宇都宮弁護士へのインタビューは供託金問題に関心を持たせてくれた。松尾匡先生の撮影で立命館大学の研究室にお邪魔したが、その途方もなく熱いレフト1.0~3.0の講義!2カメで臨んだが、僕の素人カメラは全く役に立たず、編集者がえらい苦労した。すみません。  そして社会保障研究が専門である唐鎌直義先生!朝日新聞の記事を見て激しく感じ入ったので、突撃で申し込んでご快諾頂き撮影させてもらった。『1945年の精神』本編中に登場するアナイリン・ベヴァンの動いている姿に感動されていた。それは英国の社会保障も研究されているが故で、そのことをお聞きして本当にお願いしてよかったと思った。唐鎌先生は、日本の社会保障があらゆる分野で脆弱であることをずーっと前から問題視されている。『下流老人』で有名になられた藤田孝典氏や伊藤周平教授なども唐鎌先生からの影響があるのではなかろーか。唐鎌先生の国交労連制作のインタビュー映像を見た時、ユーモラスでありながら、社会保障について厳しくご指摘される姿に惚れたのもお願いした理由ですが。  そもそも、『1945年の精神』DVDを出したいと思ったのは、その前にブレイディみかこさんと國分功一郎先生の対談を下北沢の本屋B&Bで聞いたことからであった。ブレイディさんが「SPIRIT OF '45」の話をされたことが始まりでした!  れいわ新選組は『1945年の精神』本編の主張、そして解説、特典映像にご協力いただいた皆様が主張されていることを実現すべく、まさに当事者の皆さんが立ち上がった!ということで全面的に応援してます。さて参院選の結果は!?
 最近ふと思ったのは、「〇〇せねばならない」「〇〇あるべきだ」的な思考回路で考えていることがほとんどではなかろうか、ということ。もともと考えるのは苦手で、頭の中に言葉が浮かんで、考るというような運動になったのは高校時代以降ではなかろうかと思う。小、中学時代は親から言われるままに生きていたようで(多少の反発もあったとは思うが)、ぼんやり日々過ごしていた。親は子に、世の中はこうなんだから、こうしなさい的なことを言い続ける。こちらは「世の中のこう」というものが正解なんだろうから、その解を出していくのが普通、というような日々。例えばテストとは正解があるもので、その正解を記入すれば良く、とりわけ中間、期末テストは、正解もかなり予測可能となって、〇を得る可能性が高くなる。それで正解を書いて点が良ければそれで日々良しということで済む。つまり、世の中全般には正しいことがあって、それを表現したり、行動するのが良いというように育つ。こうあるのが良い、こうあるべきだ、的なあり方が自然になってくる。  高校時代になると大人びた友達も出てきて、ぼんやりなことに気づかされる。なので、今までは何だったんだ!となる。ここで、自分について考えるようになるのだ。「もっと自分とはなにか考えなければならない」「もっと別の行動をとるべきだ」という思いから、過去に決別し、それまでの友達とも離れ、親には反発し、となってくる。  しかし、もともとどうにも考えるということが苦手なので、考え「ねばならない」、こう考える「べきだ」が基本的な駆動力となっている。ぼんやり時代も、反発時代も、「ねばならない」が基調だ。とはいえ反発時代は考えるのがやっぱり苦手なのでぼんやり遊び呆けているが。  というようなことがつらつら浮かんできたのだが、この「ねばならい」的思考は染み込んでおり、今でもどこかに正解があってそれを探す、見出す、そして世の中の正解に基づいて行動する、という習慣から抜け出てないのではなかろうか、と思う。  話は少々それるが、いわゆるPOSデータなどの分析によって、ユーザーニーズを素早く的確に把握し、一刻も早くユーザーの元に届ける、というような仕組みとは、ユーザーのニーズという正解があって、それを素早く見出し、正解を持つ人を満足させるというこものなのかな。とすると、これも一種の「ねばならない」的なものと言えるような気もする。こういうパターンは実は多いのか?視聴者満足度の高い番組を提供するのが一番で、それがTV局の最も気にする視聴率を上げること、とかも、似たような志向かしら。  しかし、世の中にも、ユーザーの中にも、視聴者の中にも正解はないように思うが・・・。余談的だが、ユーザーニーズ、視聴者ニーズというのを目指すのは、エントロピーが増大してあんまし良くないんでないか。  だから、好きにやろうよ、と言いたいところだが、そういう本人が「ねばならない」的思考だから、「好きに」というのが実は難しい。それにしてもしかし、「ねばならない」的な思考からの解放というのはあるんかな。  「三つのエコロジー」(フェリックス・ガタリ著 平凡社ライブラリー)という本の中に動的編成(agencement)という言葉がある。僕の引用はいいかげんなので信用ならないが、主体とは動的編成されるもので確固たるものがあるというわけではない、とのこと?つまりは「ねばならない」思考も出てくれば、「そうしたい」という思考も、どだい区別つかんものとして混在してるのかな・・・。心の動きをマインドフルに眺めるとなんかわかるかしら。  スピノザ「エチカ」第5部定理31の備考に「・・・精神をあたかも今存在し始めたかのように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、ということである。」とある。ここは精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることを、より一層理解されるには、このように考えるといいよ、という部分。いやーこれはスピノザは体感してるので、さらっと書いてるが、個人的にはとても興味深いところ。あたかも今存在し始めたかのようにある精神・・・。ああ、「ねばならい」「あるべきだ」思考からの解放の瞬間・・・かもしれない。
2019/05/09
 先日、トーハクで開催されている特別展「国宝 東寺―空海と仏像曼荼羅」に行った。...
2019/04/15
 4月7日、連れの知り合いからありがたく頂いたチケットで久々に神宮球場へ。席の位置はネット裏、ほぼ真ん中で、少しだけ高いところなので、最高に見やすい場所だと思う。今までで一番いい席でした。...
2019/03/05
『居るのはつらいよ』はセラピスト東畑氏の沖縄時代の精神障害者向けデイサービスの日々を軽妙な文章で描いて、あっという間に読み終わるほどの面白さ。利用者や職員との交流は実に味わい深いので、読んだ人たちからいっぱい感想が出てくると思う。それは置いといて、終盤あたりに出る「会計の声」がぐっときた。なんといってもつまりは仕事=お金という現実!サービスはお金という尺度によって全て計られるのであった!という現実はのっぴきならない、というところ。いやはやそうだよなあ。セラピーもカウンセリングもデイサービスも何もかも1時間いくらだったりするわけで。これが資本主義的システムなんで、致し方なし!これしてなんぼ、これされてなんぼという、サービス供給者も需要者も気づこうが気づくまいがレジがチンチンなってるという。しかし、そうだから良いというのもあるんだろうなあ。介助という仕事も恐ろしく細かい単価制度ではあるが、サービスを金額換算する。頼むほうも頼まれる方もサービスへの対価ということだから、情緒的なところ、人間的なところなど余計なことを考える必要がない(少なくなる)。こりゃ中々デジタルな感じですっきりしてるわけです。なんだけれどもそう割り切れないんじゃないの?というか、割り切れない何かが多分ある。いやだからこそあえて割り切る仕組なんじゃろ?と思いはぐるぐる回っている。  ここで話が飛ぶのだが、仕組みや制度は何を目的としてるのかなと考える。資本主義はお金を使ってお金を生み出す仕組み。あらゆるものをお金という価値で計る仕組みで、お金を手に入れ、お金を使って何かを得るためにある。だものでこの仕組みは、アナログな存在としての人間とか自然とかには関係ない。だから多分無理がある(人間も自然も疎外され、労働力や資源、不動産などとなる)。ここからはさらに無茶な発想と思うが、介護サービスにおけるあの途方もない単価制度や、やたらに細かい制度は何のためにあるのだろう。これは管理する、という考えだからろう。もちろん、国民から徴収した保険料や税金を無駄に使わせないために管理せねばということだろうが。しかし、このようなサービスは人格も関わる人間労働なので、中々単価制度になじまない部分もあると思う。だからこの単価制度を含めた制度は人間を疎外してるんではなかろーかと(この言い方にはちょいと無理があるか)。いやだからあえて人間を考える必要のないすっきりデジタルな単価制度なんよ・・・またぐるぐる回っている。(とはいえ、途方もない事務作業が生じることは間違いなかろう)  先日、新聞に掲載されていた記事をネットで読んで僕も感動した。世田谷区桜丘中学校の校長先生の記事。この中学は校則がない!チャイムもない!校則がないなんて!!!!チャイムもないなんて!!!!生徒も先生ものびのび生活している。なんてすごいんだ。これを読むと、校則なるものは倒錯しているんだなと思う。規則のための規則。管理のための管理。生存し共存し考えることを学ぶということには本質的には関係がない。  さらにぶっ飛ぶが、ここでスピノザ「エチカ」の定理を考える。第一部定理16:「神の本性の必然性から多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ」(神=唯一の実体=自然を忘れないように読んでも難しい)証明部分には、省略するけど「・・・物の定義がより多くの実在性を表現するにつれ、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論する・・・」いやこれだけ読んでも何がなんやら全然わかりましぇん。スピノザはこの例にどこかで円の定義について書いていたが、わからないのでここで無茶苦茶な発想、人間を定義すると(誰がする?というのがあるか)して、その定義が実在性を表現するにつれそれだけ多くの特質を結論する。確かに、そうすると人間について色んなことを見出すことになる。えーい、何をこじつけたいかというと、つまり上述の、仕組みや制度、規則は実在性を定義してないので、自然の一部としての人間にとっては無理筋だったり、空虚で倒錯的なところがあるよなあ、というところかしら。(いや、こりゃ大上段に振りかぶってみたけどこじつけ過ぎだと思う)
2019/02/04
 きっと会計学なんてことになると違う世界と思うんだけれど、日ごろの経理業務をしているとホントに複式簿記の凄さが身に染みてわかる。会計には、最近では『帳簿の世界史』(ジェイコブ・ソール著:文春文庫)や『会計の世界史』(田中 靖浩著:日本経済新聞社)など注目されているみたいなので、興味のある人も多いのではなかろーか。...
 年末に帰省し、1月1日には久々に姉夫婦やらその子供たちやらが集まり、にぎやかな新年会となった。...
2018/12/05
 弊社決算も終え納税も済んだけれど、いつも消費税には悩まされるなあ。...
2018/11/05
 昨日、曼荼羅寺観蔵院の第24回悉曇仏画展に行ってまいりました。  曼荼羅DVD制作でお世話になって以来、毎年のようにお伺いしております。5日間にわたる展覧会は展示のみならず、法会、講話、、声明公演と萬燈会、チャリティーコンサートなど盛り沢山。...
2018/10/02
 プールで泳ぐのが習慣となった。ずいぶん昔、どこかのフィットネスクラブに通っていたころ、インストラクターがなんとも優雅に泳いでいることに衝撃を受けた。クロールでゆっくりと、今表現するなら、ワンストローク、ワンキック。バシャバシャするバタ足は全くなし、水しぶきほぼ無し。4拍左右の息継ぎ。潜水艦が浮上して静かに進んでいる、または、イルカのようなのが、超ゆっくり進んでいるようなイメージ(昔のことなのでイメージふくらみ過ぎたかな)。 それ以来、マラソンのように、いや歩くように延々休みなしで泳ぎたいと思って、それをイメージしながら泳ぐようにした。これが初めのころ難しかった。バタ足から解放されるために、手を伸ばしてぷかぷか浮かぶことから始めて、足は動かさないで、腕をボートのオールのつもりで前へ進むようにして。。。その感覚がなじんだら、足は腕のタイミングと意識して1回ずつ動かすようにしてみる・・・。それからほぼ10数年、まだまだぎこちないけど歩く感じで泳いでます。  幼いころの補助輪なしの自転車に乗る練習を思い出した。多分、補助輪付き自転車に乗った記憶がないから、姉の使っていた24インチくらいの大人用で練習するしかなく・・・、まあできないできない。足が地に着いてないもんだから、倒れるは、田んぼに突っ込むは、痛い怖いで、何とか乗れるようになったのは、なぜだかよくわからない。  さてずいぶん前のことだが、自分の子供には子供用自転車があって。補助輪がついていた。いつの日か、公園で補助輪外して自転車乗りの練習をすることになった。バランスを取りつつ、足をペダルに乗せてこいでみる、いざとなると足が着いて倒れるのを防ぐ、というの、ああ、なんて素敵な練習方法なんだ。ものの20分もしないうちに乗れるようになったではないか!僕もこんな練習をしたかったなあ。子供はその後一輪車にまで乗るようになり・・・いつの間にか大人になった。  そんなことを日曜の朝、泳いだ後につらつらと思い出した。スピノザは、実体は必然の連鎖で動いているわけだから、その中にある人間の自由を認めてない。自由と思うのは、あらゆる連鎖とその法則、その及ぼす結果を全て把握できる能力がないからだ。人間が自由か自由でないかの論議はよくわからない。でも、自転車を、一輪車を自在に乗りこなすとか、思ったように泳ぐ(僕はまだぎこちないです)とか、それは重力や浮力や推進力の法則を体が身につけて利用できるようになったということで、それが自由(自在)ってことでしょーか?とすると思考の自由とはどうなったときなんだろうにゃ。

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