2020/10/18
 10月16日金曜日に、高次脳機能障害の知人が母国へ帰った。彼は20年くらい前に日本にやってきて、その後脳腫瘍と不整脈で意識不明となって手術。そして10年くらい前に東京の病院に通うために上京した。私が知り合ったのは世田谷区の高次脳機能障害の方のガイドヘルパー養成講座の実習の現場。彼が上京してから3,4年後であろうか。その時のことは記憶にある。小声で日本語をしゃべる彫りの深い優しい感じの男性。買い物のお手伝いということでユニクロで、ズボンを買った。彼は腿あたりにポケットのあるモノを選んだ。薬を入れるので、ということであった。  それから2年位たって、当時時々手伝っていた事業所のスタッフから移動支援の引き継ぎということで、彼に再び会う。久しぶり!彼は覚えてないかもしれなかったが、私は知っているので緊張感はなかった。それからずっと彼の移動支援をしていた。6年くらいだろうか。彼の場合は、歩けるし、出かけるところに制限はないので色々なところに行った。東京はホントに色々なところがあり、かつ電車で移動出来て、自分でも初めて行ったところもたくさんある。観光名所、商店街、美術館やら博物館、公園、母国料理を食べに行ったり、中華街に行ってみたり。(もし地方で移動支援となるとこれはなかなか大変だろうと思う。利用者に身体的制限がなくとも、候補がない、交通機関がないということがつらいところだ。車の移動もいいのかな?よくわからない。)障害のせいかもしれない、性格なのかもしれないが、彼の弱気のところ、心配性のところ、こだわるところなどなど、「もー、そんなの気にしなくていいんだよ」などと最初は思っていたが、しばらくして、そういう人だもんねと、こちらが慣れた。そんな風に思うこちらの方の性格もあるわけだ。  高次脳機能障害の方の移動支援は利用者の障害が千差万別でもあるので、これが正しい、というような支援の方法はなく、支援者側の個性により、自ずと変わってくるように思う。その障害についての最低限の基礎知識の上で、後は利用者と支援者の個性によって関係性が変わるのだろう。と考えているのだが、これまた支援への考えは人によるのだろう、と思う。この「支援方法は人による」、という考えでいいのかどうかもよくわからないが。  最近、世田谷区の就労支援B型作業所ハーモニーにおられる新澤さん(直接の知り合いではない)という方(「幻聴妄想かるた」を企画、発刊された方)のTwitterで知った「急に具合が悪くなる」(宮野真生子、磯野真穂著 晶文社刊)を読んだ。その中に「関係性を作り上げるとは、握手して立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動のラインを描き続けながら、ともに世界を通り抜け、その動きの中で、互いによって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。」という文章がある。素敵な言葉だ。なんだかじーんときた。  母国へ帰った彼との支援関係とはそんな感じだったように思える。(そのような関係だったように思っていいよね、と思わせてくれる圧倒的に緻密で具体的で、考えに考えて紡ぎだされた言葉たち)  帰ると決めたその頃から、彼との長い付き合いからじんわりとした感情が湧いてきた。利用者と支援者という関係ではあったが、なんとなく寂しさのような感情も出てくるもんだ、と気づいた。母国で思い切り自分の言葉で話して、楽しく生きることを祈りつつ。
2020/09/13
 先週、「ブルシット・ジョブ」を読み、訳者、酒井隆史氏の解説の中に、「・・・『アナーキスト人類学のための断章』(以文社、2006年)は、グレーバーにとって3番目の著作であるが、・・・みずみずしくざっくばらん、かつ刺激にとんだすばらしい著作である。最初にこれを読んだときのおどろきを忘れない。」とあり、とても読みたくなって早速手に入れた。読み進めながら、ああデヴィッド・グレーバー、なんて素敵な人だと感激していたところだった。前衛と称する(される?)人々の高踏理論などは不要であり、むしろ低理論とでもいうべきものが大切なんだ、などなど。行動力と知性、そして人を思いやるやさしさ。写真を見て益々そう思っていた。優しい目だなあと。そんな風に思っていたところで、twitterで彼の訃報を知る。ええっ!ホントに!?信じられない。嘘であってくれと思った。1年くらいまえから、英語もよくわからんのに唯一海外の人でフォローしていた人だった。彼の思想、活動に関心があった。その彼が9月2日、59歳で亡くなった。悲しすぎる。とても輝いている希望の灯だったのに。本当に残念だ。  途中で止めていた「負債論」を最初から読み始める。読み始めてよかった。前の時は、あんまり分厚い本なのでビビって、ページをめくることに意義があると思っているような不純な読み方だった。読み返してみると、第1章から意味を汲み取っていなかったことが分かった。貨幣の通説ちゃぶ台返しがすぐに始まっていたのだ!今度は厚さにビビらず、読み終える先も考えず、目の前のページに専念しながら進むことにする。  高踏理論は不要、というグレーバー。身体を抜きにしたあーでもない、こーでもないという言説は山のように溢れている。ただの批判や批評、感想、印象、溢れかえる形容詞。そんな日常で毎日揺れ動く自分。“海に放り出されたコルク”(「GDアベセデール」の中でGDの友達とのやり取りで友達が言った言葉、だったかしら)のように。さてさてどんな活動をすれば良いのだろうか?考えることと活動が繋がっていくのが良いのだが・・・。  ここでまた「エチカ」に戻る。「第4部定理14 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれば感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。」この証明がまたいいんだ。「感情とはある観念ー精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である。このゆえに感情は真なるものの現在によって除去されるいかなる積極的なものも有しない。・・・しかしそれが感情である限り、・・・その限りおいてのみそれは感情を抑制しうるであろう、・・・」 まさに吹き抜ける風!によって地に着陸できるような気持になる。世界(自然)の内に生きる個物である限り、身体を抜きにして語ることには、どこか表面を滑る感じがある、ように思う。  そんなことを感じつつ、ふと日本の消費税という現実にある制度を考える。多分、的を得ていない表現だが、これは虚構としての悪が現実の脅威となって影響を及ぼしている、ようなもんだと思う。うーんちょっと違うか。頭で考えてしまった理屈だけで、身体性を考慮に入れていない最悪の税制だ、とでも言おうか(日本の場合)。  グレーバーならなんと言うんだろう。RIP。
2020/08/16
 最近何かの本か記事で、マーケティング資本主義ということが書いてあったような。私の使い方が正しいのかもよくわからずに勝手に思うことなど。産業資本主義の後、ものが溢れて需要が滞るのを、適当な言葉で煽って消費を促進するという、資本主義ということらしい(こんな意味でいいのかな?)。高度成長期もとっくに終わった後はずっとそれ。広告、キャッチコピーで、今これを買わなきゃ乗り遅れる的なノリで強迫観念を増長させて消費に走らせる。マスメディアも煽る煽る。次々とほとんど中身は変わらない商品が発売されてどんどん買わされる。まあ必要ないものを買わせないと資本主義としてはやってられない。20年以上前か、ある会社でビデオの発売元の宣伝担当としていた時、販売元との打ち合わせで、自分でコピーを作っておきながら、担当者の方に「完全に言葉がインフレ起こしてます」など臆面もなく言った記憶がある。その状況はあらゆるところでさらに加速し拡大しとどまることを知らない。金融資本主義もわけのわからん金融商品を作って売りまくる。中身は空疎。必要ないけどどんどん資源を使うし、加工もするから、そりゃ気候変動も起こりますがな。  コロナで現政権が空疎なものだとあらわになった。これはマーケティング政治といえるか。言葉だけは踊る、一見華々しいけど、中身ゼロ、みたいな。一応理念があるようなフリはする(政治なんで)けど、理念もキャッチコピーみたいなもんだとばれてしまった。多分ずっと前から景気も悪かったのに、景気が良いフリをしていた。古い産業界が力を持ち、彼らのみを生かすことに注力した。裾野が途方もなく広いのでそれは必要であったのだろう。それにしてもそれ以外はほぼ何もしてないといえる。コロナはそんな政権の超近視眼的で、何も起こさなかったことを明らかにしてしまったようだ。  などなどシャボン玉のように言葉が浮かぶ。  最近、「武器としての資本論」(白井聡著 東洋経済新報社)を読んだら、資本主義の内面化、ということが書いてあった。我々の思考が資本主義的な思考であること、それが歴史的なことであること、つまり相対化する視点が必要であり、可能であることを教えてくれる。  脈絡なく、シャボン玉的言葉が浮かぶが、他に思ったのは、スピノザ「エチカ」の共通概念ということについて。ドゥルーズが「スピノザ 実践の哲学」のなかに、「・・・その意味は数学的というよりむしろ生物学的であり、存在する体どうしの適合・一致や構成的統一の関係を表現している・・・」とあった。これは素敵だ。共通概念は人とモノ、人と人にも適用される概念。ケアの仕事も共通概念というところからも何か考えられる気がしないでもない。  シャボン玉のような言葉が空疎でなく、体がそう考えて、それが浸透し、これから何かの実践として心身が動き出す、ということになるのだろうか・・・。よくわからん言葉ですね。  猛暑により蒸発してしまう可能性は大でありますが。
 読書において読み手の力量はそれぞれなので、読まれる本もそれなりに理解されるということは当然なのだろうけど、最近改めてそれが身に染みる。...
2020/06/13
 「バーフバリ」シリーズからラージャマウリ監督作品2作品を立て続けに観た。ハエに転生する「マッキー」はハエに共感できずに、1回で止めた。「マガディーラ 勇者転生」は「バーフバリ」と同じような雰囲気だけど、転生は「マッキー」と同じテーマでもある。400年前に勇者と王女のかなわぬ恋、そして現代、転生したこの二人が色々あってやっと結ばれる・・・という物語。「バーフバリ」もそうだったのだけれど、本作もなんだか繰り返し観ている。監督の物語の運びが上手いのか、音楽もいいと思うし、最近とても面白いと思っている映画。  400年前の時代、転生前の勇者バイラヴァが100人の敵を倒すシーン。矢を受け瀕死の状態でも闘い続ける時に、静かに流れる歌の字幕は「勇者よ その命今ここに尽きようとも 戦いを放棄することなかれ」「勇者よ その静寂が今まさに尽きようとも 戦いを放棄することなかれ」と出る。  ラージャマウリ監督は子供のころインドの神話の漫画などをよく読んでいたと、どこかで見た。「バーフバリ」も本作もシヴァ神に祈りを捧げるシーンはとても多い。転生もあんまりこだわっているわけではないと、インタビュー記事であった思う。エンターテインメントの監督なので、それらにはそれほど深い意図はないのではないかもしれないが、親しんだ漫画や何よりインドなので、なじみのあるテーマなんだろうなと勝手に思う。  つらつらとそんなことを考えつつ、上記の歌の字幕は、なんとなーく関係あるのかも、と思い出したのが「バガヴァッド・ギーター」。インド一大叙事詩「マハーバーラタ」に収められている韻文詩。「マハーバーラタ」は読んだことがないし、ヒンドゥー教もよくわからないけど、「バガヴァッド・ギーター」は、以前面白そうだと読んだ。兄弟親族同士で大戦争が今行われようとする時、戦士である王子アルジュナがなんで親族と闘わんといかんの?と苦悩し、問いかけるのを、彼の指導者にして御者になっている、ヴィシュヌ神の化身クリシュナがその悩みに答え、励ます、というもの。あまりに有名な本で、名前を知らない人は少ないのではないかと。私が手にしたのは「神の詩 バガヴァッド・ギーター」(田中嫺玉訳 TAO LAB BOOKS)。訳がとても親しみやすいので読める。この本や「マハーバーラタ」については「松岡正剛 千夜千冊1512夜」を見た。  パラパラとめくって見つけたところ、第2章の47の詩「君には 定められた義務を行う権利はあるが 行為の結果については どうする権利もない 自分が行為の起因(もと)で 自分が行為するとは考えるな だがまた怠惰におちいってもいけない」次の48の詩「アルジュナよ 義務を忠実に行え そして 成功と失敗を等しいものとみて あらゆる執着を捨てよ このような心の平静をヨーガというのだ」あたりはなんとなく近いかなと思ったりした。他にもきっと通じるところはあるだろう。「バガヴァッド・ギーター」の哲学やヨーガの世界はインドのみならず世界の人々に影響を与えているだろうから、ラージャマウリ監督が読んだ神話本にも当然その思想は流れているだろう。また、シヴァ神やクリシュナ神は今でもあがめられているのだろう。だから監督が制作する映画にも反映されてるのだろうなと。そんなことをまた思いつつ「マガディーラ」を観るのであった。  ところでラージャマウリ監督が新作を撮影中とのこと。仮(?)タイトル「RRR」というのは監督と二人の主役(一人はマガディーラの主役ラーム・チャラン)の頭文字らしい。来年インドで公開予定。日本での公開が楽しみだ。しかしその時、まだ私の興味は続いているのだろうか。
 外出を控えるようになって一か月が経つ。録画した映画を観る、本を読む、酒を飲む、現政権への不満、などが確実に増えてきた。そんな状況なのでネットや小さな書店で本を買い、積読状況にも拍車がかかる。...
2020/04/12
 コロナウイルス蔓延防止のための自粛要請により、自宅に籠る時間が多くなった。録画した映画を観る時間も増えた。ここのところ、『バーフバリ』1,2にはまってしまい、特に2を繰り返し観ている。しかもある部分は何度も。それは、バーフバリが奴隷戦士カッタッパと民衆のことをより深く知るため、素性を隠しながらの旅の途中で、クンタラ王国の王の妹デーヴァセーナに出合ったところからだ。ここから、バーフバリとカッタッパが、クンタラ王国に突如攻め入る何万という賊軍ピンダリをあっという間に打ち負かし、素性が明かされるまで。  盗賊を倒すデーヴァセーナの剣技と美貌に惚れ、彼女もバーフバリに一目で好感を持つ(既に好きになっている、と思う。一目ではなく、もう少し後かもしれないが)。しかし、あほで武術も知らん男と侍従役のカッタッパに紹介されて、半信半疑。まあガタイもいいから、鍛えれば戦士になるんじゃないかと城に住まわせる。根はいいが小心者で武技も下手な、デーヴァセーナの従兄クマラが指南役。ところがそのクマラが突如すごい活躍を見せる。傍にバーフがいる時に。そしてバーフ達を怪しむデーヴァセーナ。この辺で、彼女はバーフを既に好きなのだが、あほじゃなくて好きな相手としてふさわしい人であってほしいという願いを込めた表情。デーヴァセーナ役のアヌーシュカ・シェッティがすんばらしい。  そうこうするうちに、突如賊軍ピンダリが深夜に攻め込む。デーヴァセーナの前にも続々と襲いかかる敵。弓矢で一人応戦するが、もはや絶体絶命。その時である。後ろから3本の矢が同時に飛んできて、襲いかかる寸前の敵を倒す。この時の映像がとても好きなんです。背後からデーヴァセーナを撮っているので、彼女は矢が後ろから飛んできて敵に刺さったことしかまだわからない。ここで彼女は驚いて一瞬動かなくなる。どうして!まさか!そしてひょっとして!この動揺と期待!この時カメラのピントがその動揺と同期するように(させていると思う)、ピントが一瞬ほんの少しぼけてまた合う(2度くらいあるか?)。すごいと思った(こういうテクニックはあるんだろうけど、素人なので初めて気になりました)。そして振り向くと、やっぱり!飛びながら3本の矢を同時に放つバーフバリが!そして次々と3本の矢を放ちながら敵に向かって進み、彼女のそばを過ぎる。この時の彼女の、バーフを目で追い続ける姿も泣ける。そして、バーフが振り返り、彼女に向けて3本の矢を放つ。それは彼女の頭をかすめ、1本はイヤリングを鳴らして後ろの敵を倒す。彼女は微動だにせず大きな目でほんの少しにこやかにバーフバリを見つめる。ここを言葉にすれば、「やっぱりあなただった。私が思ってた通りの人だった。好きになったのは間違いじゃなかった。」。そして完全に愛したのである。  長々書いた。小説や物語を読まない最近だが、昔は読んでいた。そのせいだろうか。何かこの一連のシーンは英雄物語の典型のような気がして懐かしんでいるのか。あほな男が実はすごい、という設定はこちらの願望もあるからなのか?わかりません。  バーフバリが惚れ、デーヴァセーナが惚れ返すこの一連のシーンはわずか20分くらいだと思うが、その筋書きとカメラ、そして音楽は、本当に見事だなあと思いました。それにしても全編そうなのだがカット数もめちゃくちゃ多い。カット数が多く、1シーンの余情が少ないから、多分こちらの感情も早く高ぶるのかもしれない。いやきっと早く高ぶるように編集している。まとめるようですが、映画の凄いところを覗いてしまったような気がしました。コロナウイルスを忘れさせる映画のひとつです。
2020/03/11
 宇野邦一著『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)を読んでいる(途中ですが)。面白いです。難しいドゥルーズの哲学に歯が立たない者の強力な助けになります。最初の方に「何を構造主義として認めるか」について触れていたので、これを読んでみた(『ドゥルーズ・コレクションⅠ』(河出文庫)にある)。この文章も僕にはとても難しいので、多分とんちんかんな感想と思うんだが、静的な構造が考えられるとして、それがどう現れるのか、現れるには何が考えられなければならない、みたいなことが(も)書かれてるんかな・・・。勝手にそう思っているだけで、確認するための読み返しは難しいので躊躇してます。で、想像を膨らませて、ドゥルーズさんは、哲学が絵に描いた餅とならず(その絵も中々鑑賞さえ難しいのですが)、生きるこの現実にどう接続できるのか、接続できてなんぼじゃ、みたいなことを(も)考えてたのかな。今度読み直したら、今の感想に赤面するんだろうなあ。  しかし、哲学解説本は世の中にはたくさんあるけど、僕にはつまらないものだ。この哲学者はこんなことを考えていた、あの哲学者はこうだった、みたいなのをを読んでも、読んでる自分は変わらない。知識が多少増えるかもしれないけれど、あの哲学はこうで、あの哲学があーで、みたいなことを語るのでは、語る自分が変わらないではないか、とようやく思ってきた。そりゃ退屈だ。しかし、自分が変わる、変わりつつある、変わった、ということを当の自分は意識することができるのかな。その意識の在り方を変える、観察している(と思っている)自分の観察の仕方を変えるのが重要なポイントだと思うが。世の中の自己啓発本というのは、全く読んだことがないのですが、どんな指南をしてるのかな。それとは違うけど、マインドフルネスはその意識の変化を促すんだろう。できてませんが。とはいえ、変わろうとする意識は必要なんだろう。千葉雅也氏の『勉強の哲学』がついに文春文庫となって出た。これは習慣に無意識な自分を変えて、楽しく生きる方法を説く活気的な本だ、と思う。実践の書だ。  実践には頭と身体が伴う。身体が伴うということが重要だ。というと、またどーしてもスピノザを考える。『エチカ』は実践の書なので、『エチカ』は心身平行論の哲学で、デカルトに異を唱えたもので、また、スピノザの神に対する考えが当時のあらゆる信仰者から非難を浴び、200年位経ってようやく脚光を浴び始めた、と解説するだけでは意味がない。神=自然=実体というのは途方もない思考だ。神=自然=実体は、無限の属性で表現されそれが変状し、個々の存在として現れる。人は、その存在を思惟と延長という属性によって知る。人も思惟と延長の属性の変状だ。思惟属性の変状である観念と、延長属性の変状である身体は、存在というものをそれぞれの属性によって表現したものだから、おんなじものを別表現してるに過ぎない。だから存在そのものとして捉える。僕が書くとどーもしつこいだけでわかりづらいが、なんかすごくないですか。我々が存在する前に世界はある、つまりは我々が世界内で単に存在として生きている、ということは紛れもない事実としてあることが、大前提になっている。この前提を受け入れないわけにはいかない。そしてこの事実を受け入れることから考えていったらこうなるし、こう生きるのが気持ちいいんじゃないか、というのが『エチカ』の実践のすすめ。我々が世界内存在であることを受け入れた時に、ではどう生きるかという(頭で、例えば世界をコントロールできる、と考えても世界内存在なのだからできるわけない、というのも前提から出てくるし、つまりは超越的にはなれないということも)。これは古びない問題だ。  てなことを考えると、飛びますが、例えば資本主義というのは無理がある、ので見直さねばならない、と結論される・・・のではなかろーか、などなども哲学の実践的思考であろうか。  今回は、ではなかろーか的なことばかりで、まだるっこしいです。まださまよってます。
2020/02/12
 2月9日(日)成城ホールにて開催された「第13回春の音コンサート」に行ってきました。高次脳機能障害の方々が、日々練習をして歌や演奏を披露する場。バイオリンを弾く男性は、右脳の損傷により、左麻痺で左半側空間無視(左側が良く見えない)、地誌的障害(道に迷うなど)のある年配の方。プロのフルート奏者だった男性は、左脳の損傷(だと思う)により、右麻痺が残り(高次脳機能障害は別にあるはず)、ピアノで自作曲を弾かれた。失語症の方々が群読(みんなで詩を読み上げる)を披露されたり。カラオケが好きで、素晴らしい歌声を披露する女性。などなど、熱演で盛り上がった。  カラオケ好きな女性は、失語症の特徴だと思うが、歌は歌えても、上手く喋れない。何かを伝えようとして「うーん、えーと」を繰り返される。3分以上繰り返されたであろうか。ケアスタッフがギター伴奏者なのだが、次の言葉をずーっと待っている。時に相槌をうったり、ちょっと促してみたり・・・。それでも「うーん、えーと」は続く。観客、ボランティア・スタッフは、高次脳機能障害の失語症状況をご存じで、淡々と待っている。特にみんな焦ってもいない感じ。しばらくして、伴奏者が何かを汲み取って声をかける。彼女はそれに反応してうなづく。そして再び歌は開始された。さすがだなーと思いました。  失語症と言っても様々で、聞く、読む、話す、書く、などについて、これはできるけどそれはできない。これもあれもできない。など本当に様々な症状で千差万別だ。高次脳機能障害自体が、脳損傷の場所によって様々な症状が出て、人によってすべて違う。脳損傷の位置が同じなら大体同じ症状が出るとはいえ、損傷もやはり違うし、人の脳は同じものはないし、性格も違うわけなので、違うわけですね。  高次脳機能障害の一つの症状としての失語症も、単に失語症のみを考えればよいのでもないし、遂行機能障害、記憶障害などが影響しているだろうし。。。脳損傷による症状は超複雑だ。  とはいえ、明確に失語という現象があるので、失語症の方は、様々になんとか回復しようと努力される。言語聴覚士にリハビリのアドバイスを受け、同じ失語症の仲間で話せる練習をしたり。  自分も高次脳機能障害の方の支援を少しだけしていますが、失語症に対して、言語聴覚士ではない我々が、少しでも役に立つことはないのだろうか、と思うところです。東京都が「失語症者向け意思疎通支援者養成講習会」を実施してるのではありますが、これがなかなかハードスケジュールで難しい!  もちっと手ごろな手段はないもんでしょうか(甘いといわれそう!)。
 昨年12月、書店でフラフラしているときに、ふと目に入ったのが『スピノザ よく生きるための哲学』(フレデリック・ルノワール著 田島葉子訳(ポプラ社))だ。早速買って読んでみた。スピノザの生き方と哲学がとても共感をもって解りやすく書いてある思う。翻訳もいいのだろう。“自由な思想家”の章の最後の文章に「論証とは、精神の目でしか見えないものを明らかにすることである」とあって、本書の原文では「証明(論証)は精神の目」とあった。上野修のデカルト、ホッブス、スピノザを取り上げた本のタイトルに『精神の目は論証の目』というのがある。『エチカ』第5部定理23の備考にある文章なのだけれど、岩波文庫の畠中尚志訳の文章を読んでもよくわからないままだ(よくわからないところは他にもたくさんあるけど)。 田島葉子氏が上記のように翻訳されたことで、なるほどなーと思った。毎度のように自分勝手に思ったところだけど、証明を進めていって開かれる思考というのは、日常、感情や惰性的な考えは偏見や癖に傾いているのに、それさえも気づかない。けれど、論証というのは、自分の普段見られない(自分の見方を見るというのは中々難しい、というか普通出来ないので)、世界の姿を明示してくれる、ということなんだろう。さらにここの備考は、精神の目は神(実体=自然)の必然の運動と一致しているものなのよ、というようなことも言っていると(勝手に)思っているのだけれど、まだピンときてない。ので、しばし熟成を待ちます。  最近改めて、『エチカ』を散文的に読むのでもすごいのだけれど、スピノザがこの1部から5部までの順で良く読んでみて、上記の論証ということからもそうなんだけれど、随所で『エチカ』の文章に感動するのであった。  それぞれの存在というのは神=実体の変状だから、欠陥品などいうものはないわけで。第4部序言(岩波文庫P.13)に「最後に私は、一般的には、完全性を、すでに述べたように、実在性のことと解するであろう。・・・むしろおのおのの事物は、より多く完全であってもより少なく完全であっても、それが存在し始めたのと同一の力をもって常に存在に固執することができるであろう。したがってこの点においてはすべての物が同等なのである。」とある。すべての物が同等なのだと、いうのを感覚的に言うのはできるし、そりゃそうだなと思うこともできるんだけれど、スピノザはその根拠として、すべて存在は神=実体=自然の変状だからというのを前提としているので、そうなるのは当然のことなんだ、となる。これは単に感情的に思うことではなく、それが当たり前という、実に理性的な思考になる。(「この点においては」という点を読み落としてるかもしれないけれど)  では、その前提としての神=実体=自然を考えるんだけれど、第1部で、それをスピノザは存在を生み出すもの、としていて、それ以上先に辿れないところまで行ったところから始めているので、進み方が揺るがない。  スピノザは神に酔える哲学者と言われたこともあるようだが、この超越的ではない、内在する神(自然)、ということから始める、というのを、スピノザのように内面化する、ということに思いを馳せるのもよいのではなかろーかと思う新年の始まりであった。  今回はだらだらと思うことを書いてしまい、また今度、考えが別様にまとまることがあるかもしれない。

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