『スピノザ入門』(文庫クセジュ)の改訂新版が出たので、早速購入。読んでる途中。2008年に発売されたものは中古だとえらい高くなっていて手が出なかったので、改訂新版として出てとても嬉しい。「<伝説抜きのスピノザ像を描く>評伝の決定版」とコピーにあるのがそそられる。訳者あとがきにあるように、「・・・スピノザ主義の歴史的な「受容」を解説することにある。言い換えれば、本書は、スピノザという哲学者がどのように生き、何を論じ、どのように受け止められてきたか、を解説するバランスよい<スピノザ入門>である。」から、スターに憧れるファンのような見方(?のような)から、もう少し冷静に考られるようになる、かもしれない。これはファンとしてはやっぱり知るべき情報だろうと思う。とは言え、それと『エチカ』のことを考えるというのはまた別の話。  僕のような素人が 『エチカ』を読むと、何度読んでもわからんことや、ピンとこないことが次々と出てくる。こーなのか、あーなのかとうつらうつら考えつつ(考えてないかもしれない)、寝かし、忘れ、しばらく経って、ふと、ああそうなのね。となることが幾度も。しかもそれもこちらの勝手な思い込みという場合があり、それもまたやっぱりそうじゃない、違うわこれ、となって、またグレーになる。  そんな状態なので、また最近ふと気づいたことがあって、それはもう当然とされてることなんだろうけど、自分の中でなるほどと思ったことが出てきた。実体(神)の属性として延長と思惟があって(人間に把握できる属性として)、この世界のあらゆるものが延長と思惟という属性によって表現される。というとき、じゃ、石にも思考があるんかね、と思うのは違うということだった。定義上、実体(神)は延長と思惟の属性によって表現されるのだから(延長⇒物体、思惟⇒観念)、石は実体(神)において延長と属性により表現されたもの、ということなんだなと。なんか僕はおんなじことを繰り返してるみたい。 つまり、石の観念は実体において表現されてる。これは人間にはわからんこっちゃ。ということで、ここで僕は宙づりにしておきまして。しかし、これは『エチカ』を読むと、もちろんそのように書かれてることなのに、どうしても、思惟というと、考えること、という風に捉えているので、わからなくなるんだとわかる。読んでも読んでないということなんですね。こういうのが沢山ある。國分功一郎先生がOSが違うと『100分de名著』で書かれていたけど、そういうことも含めてなんだろうなあ。  それにしても『スピノザ 実践の哲学』(ジル・ドゥルーズ著、鈴木雅大訳 平凡社ライブラリー)はホントにすごい本だ(翻訳がすんばらしいと思う)。『エチカ』主要概念集のところなんてもう最高ですね。これどういうことなんかなと思ってみると必ずその項目があって、超絶的な説明がされてる!ひゃーっすごい~、なるほどー、の連続。  だものですから、クセジュの『スピノザ入門』を開き、気持ちを落ち着けようと思ってます。 
2021/04/20
 その昔、不摂生から体重が激増した時に、突如不整脈に襲われ息もできず、脂汗が出てきてものすごく苦しんだときが2、3度あった。それから、ちょいと運動せねばならんかなと思って始めた水泳。平泳ぎはできたけれど、クロールは苦手で25メートルを必死で泳いで息も絶え絶えの状態だった。クロールの方が運動量も多いと思って始めたわけだが、下手過ぎて長く泳げない。人の泳ぎを色々見たり、泳ぎ方の本も買ったりしてみたが、自分の泳ぎが全然できなかった。前にも書いたことがあると思うけど、ある日、水泳のインストラクターだろうか(僕は習ってなかったけど)、とても美しい泳ぎ方をしていたので、それを水中にもぐって見てみた。なんとも優雅でゆっくりで、水しぶきも立てることなく、すいーっと泳いでいた。これだ!と思ってよーく観察すると、これが、ワンストロークワンキック、つまりは2ビートクロールだったんだね。  それ以来(もう10年以上前からだけど)その泳ぎ方でいこうと自分なりに工夫する。でも我流なのでよくわからない。試行錯誤の上で、たどり着いたのが、歩くように泳ぐということだった。まずは動かないで手を伸ばしてうつ伏せ状態で水に浮く。そんでもってボートのように手で進める。次に水を掻く手と同じ足をキックしてみる、というようなことから始めて、息継ぎは3拍子で左右でするようにしてと意識して・・・、てな感じでやってきて、ようやくずーっと泳げるようになった。我流なのでいいかどうかわからんけれど、まあ楽だからいいとした。つい最近、ネットで調べたら僕がワンストロークワンキックと言っていたのは2ビートクロールというもので、とあり、動画もあってみると大体同じということが分かった。ただ、掻き方や、キックは我流だから多分無駄が多いんじゃないかと思う。  ということでまだ未完成で、一番効率のいい楽な方法を手探り状態で確かめつつ泳いでいるわけなので、やっぱり人はどんな風に泳いでいるのかなと気になる時もある。やたら手の動きが早い人、バタ足がやたら多い人、やたら水しぶきの上がる人、色々だ。半身がマヒしてる人もそれなりに泳いでいる。すんごい早い人もいる。水泳クラブに所属してたりするような若者たちは鍛えられた体で、元気にそして嬉々としてぐいぐい泳いでいる。ウーム、おいらはとても早くは泳げんし、それを目指すわけでもない。相変わらず誰よりも一番遅いくらいのストロークで泳いでいるようだ。理想は魚のように泳ぐことか・・・。魚にも色々だけれど、小魚みたいな泳ぎではなくて、魚じゃないけどイルカとか、大きめのタイプがゆっくり泳ぐような・・・なんてことを思いつつ。そんな泳ぎの中でふと頭に浮かんだのが「魚は他の魚の泳ぎは気にしない」という言葉だった。なんかぽっかり浮かんできたので、なぜ浮かんだのかわからない。でもすごく面白くて笑ってしまった。  人も歩いてる時、よっぽど変わった動きをしてる人を見たら別かもしれないけれど、ほとんど人の歩き方を気にせず歩いてる。泳ぎが自然になるとそうなるのかな。まだまだ僕の泳ぎは自然じゃないと思うけれど、自分の“楽”(=自然)を見つけるようにすることに専念することにしよう。いつか魚のように泳げる日がくるであろうか・・・。魚が他の魚の泳ぎを気にしないように。
2021/03/21
 ドメインの制限管理となってしまい焦った。制限管理がかかるとメールもウェブサイトも使えない。手続きをしたと思ったのに不手際があって遂行されなかったらしい。制限管理は今日から始まります、というメールに、「えっ、なぜに?ちゃんと手続きしたはずなのに!?」そこから心臓がバクバクして頭に血が上る。サポートサイトにメールして、回答がきたけれどどうすればいいのかなんやらよくわからん。その後色々試したので、もうやることはやったので後は復旧を待つばかりと思っていた。深夜、ふと目が覚めて、まてよ、サポートの言ってることはこういうことか、と思い、もう一度手続きをやり直す。そして2日後復旧したのであった。(パニクり状態であれやこれややったのはほぼ無駄であった)  後で思ったのは、パニクらず、Webに記載されているその場合の対処方法をじっくり読んで理解して進めればうまくいったのに、ということだった。しかしその精神状態になると、私の場合、まずは手あたり次第やってみることが先だってしまい、文章を読んで理解するとか全くできない。元々文章を理解するのに時間がかかる方だと思うので、なおさらである。しかも詳しくもない分野であるし、今までに経験したこともないことなので、読んでも字面を追ってるだけの上滑りでなーんも理解できない状態だった。もし深夜に目が覚めてふと気づかなければ、多分まだ復旧してない。  自分はすぐにパニクるほうで、そうなると思考が働かないということが今更だがよくわかった。高次脳機能障害の症状の一つに人の喋っている言葉が理解できない、読んでも理解できない、というのがあるがまさにそれである。  それにしても時々、深夜に目が覚めたときに何かに気づくということがある。昼間の、心身への色んな影響で波立った状態から深夜、一旦眠りについて心身が凪状態になった時に、ふと目覚めて(多分あんまり深い睡眠ではないため)ある気づきが浮かんでくる時がある。今回も、サポートが言ってたこと、説明分の意味などが、ああ、そういうことなのね、というように。不思議なものである。  その後「エチカ」のことが頭に浮かぶ。第5部はスリリングな部で、何度も読み返すけれど、今回は定理2が気になった。「もし我々が精神の動きあるいは感情を外部の原因の思想から分離して他の思想と結合するならば、外部の原因に対する愛あるいは憎しみ、並びにそうした感情から生ずる精神の動揺は破壊されるであろう」というもの。はしょるけど、スピノザの第1種の認識、第2種の認識、第3種の認識は、表象知、理性知、直観知と言える思っている(勝手に)。日ごろの現象に影響されて浮かぶところイメージや感情から生まれる言葉や判断(第1種の認識)は、あんまり当てにならなくて、現象を共通概念(=理性知=第2種の認識)から認識すると心身の状態は変わるということだろう。(直観値は置いといて)  てなもっともらしいことを書きつつ、この認識の違いというのを表象知で考えてもしょうがないんだなと思う。でも表象知で考えているけど、この第2種の認識というのも、一種とは違う、例えばレイヤーの違いみたいなもんかなと(ちょっとズレてるかもしれないけど)。またはマインドフルネス状態なのかなと(けれど、定理3で「受動という感情は、我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や受動であることを止める」とあり、これにより能動へと変わるということだから、マインドフルネス状態とは違うと思うけど)。  などなど考え、自分のいとも簡単にパニクる第1種の認識をちょっぴりでも第2種の認識へ移行するにはどーすればいいんだろうね、と思うこの頃なんですね。でもマインドフルネス瞑想もしてないし・・・遠いなあ。
2021/02/20
 最近、22年前の映画「ノッティングヒルの恋人」にはまってしまった。ジュリア・ロバーツの演技がホントにすんばらしい、と今さらだけど知った。ヒュー・グラントもはまってるなあ。あまりにも巧い展開で、山あり谷ありを繰り返してクライマックスへ!何度観ても、飢餓感を感じて観てしまうのは、ストーリーが出来すぎ、つまりは省略もありすぎるので、行間を埋め込もうと何度も感情を注入したくなる、とでも言おうか。。。配役もセリフもいいし、本でいう何度も読み返す素敵な1冊にめぐり逢ったようなものである。  それで最近また観て、ふと気づいたのは、これはある意味、中動態を表現した映画ではなかろうかということ。ヒュー・グラント演じるタッカーはいつも受動的な生き方をしている。妻にも逃げられてしまったきり、特に新たに恋人を求めようともしていない。そんなところに自分のやってる旅行本専門の本屋さんに、ジュリア・ロバーツ演じるハリウッドの世界的に有名な女優アナ・スコットがふらりと現れる。って今更ストーリーを述べてもしょうがないので、まあ色々あるけど、いつも彼女の方が積極的で言い寄られてる。受動的にその行為を受けているのだが、ずっと夢心地。好きになりつつあるのだが、ほんとかどうか半信半疑(多分)。彼女をめぐる出来事で、離れざるを得なくなると彼の心は打ちひしがれる。  友達みんなと集まった時に、皆に謝る。これまでの僕はまるで元気がなかったけど、やっと立ち直る気になった、なんていうのだ。(ここでの友人アレックスユーモラスな言葉がいい「死人より元気がなかった」だって!)見かけの能動態。けれど、アナがこちらで撮影していると聞くと撮影現場にやっぱり会いに行ってみる。いい感じの出会い。しかしまた打ちひしがれる出来事!その後、アナが本屋に来て、タッカーに何度でも会いたいと言うのに、がつんと打ちのめされてしまった後なので、もう会わない方がいいと言って拒んでしまう。  再び皆で集まって、タッカーがアナと別れたことを告げると、皆、口々にそりゃ良かったと励ます。ただ一人同居人のスパイクを除いて。けれどその時はまだ自分の気持ちがよくわかっていない。そんな時、友人の一人バーニーが「でも、いいよな、好きな人に言い寄られるなんて」とポロリ。タッカーはじわじわと自分に向き合い始めて、「大変だ、僕は間違ってた」と自分の心の中にアナが好きであることがストンと落ちる。そして、アナのところへみんなでGO!  説明だけが長くなってしまった。タッカーの受動的な人生。能動性を発揮するときもあるが、何かそれは心なく、見かけの行為。最後の気づきに至る友達との会話が面白いところ。自分は別れることにしたけどいいよね。とみんなにいう。こういう確認を周りに求めるのは、タッカー自身、別れるという積極的な行為が何かおかしいとうすうすはわかってる。みんなも懸命に肯定してくれて、納得しようとする。けれど、スパイクのなんてこった、という言葉や、バーニーのポロリの本音がタッカーの心にじわじわと効いてくる。  優しい心遣いの肯定。そこにスパイクの言葉の一撃。バーニーの次元の違う本音の言葉。受動的な能動が嘘と気づき、自分が心から好きであることが自分の中にやっと落ち着き、確信に至るという過程。  自分の心の中に確信が芽生えての行為、というのは中動態といえないかしら。ついでに、友人たちとブラックジョーク交えての会話もなんかオープンダイアローグ的でないかしら、と思ってしまった。(いやオープンダイアローグというのは聞きかじっただけだから、勝手に想像して楽しんでます。)  まあとにかく、ホントにいい映画だと思いました。
2021/01/21
 年も変わったが、コロナの猛威は変わらず。休日もほぼ外出しない日が続いている。これが日常になってしまった。...
2020/12/06
 いつもの理解不足をまた見つけたので、忘れないうちに書いておこう。...
 しばらく前から、“存在の一義性”という言葉がなんとなく気になっていて、全くよくわからないのに、中々かっこいい言葉じゃないかと思っていた。スピノザとかで何かを検索している時に、どこかで見たのかもしれないし、それとは関係なくどこかで見て、ほー、そんな言葉があるんだね、という程度。ある日、時々行く大型の本屋さんでふらふらしていると、『存在の一義性』(ドゥンス・スコトゥス)という本が置いてあるのが目に入った。おお、あるではないか!いや、気になっていたのは、実はそこで何度も目にしていたからかもしれん。その時、たまたま意識的に目に入ったのかも。  全くよくわからない言葉なのに、なんで気になっていたかというと、『エチカ』というのは、“存在の一義性”というのがあてはまるんじゃなかろーか、と思っていたので。いや、これもどこかで誰かが言っていたのを見つけていて、フーンと思っていたからかもしれない。だいたい自分の頭で考えることが実に苦手なので、自分で思いついたというのは怪しい。まあいいや。  『エチカ』からすると、あらゆる個物は神=実体=自然の属性の様態的変状として必然的に表れたもので、不完全なものというのはない。それぞれが自己保存の力だっけな(コナトゥス)によって自らをよりよく維持しようとしている。個物は有限だから外部の影響をひたすら受け続けるので、その影響によって人も物も、変わる。人も物もそれぞれ内部状況が違うので、影響のされ方が違うということ。そんだけだ。『100分で名著スピノザ』(國分功一郎著)のなかで、良い組合せ、悪い組合せということを書かれている。例えばと、トリカブトの例をだされ、自然界においてトリカブトは良くも悪くもないが、人間にとっては悪い組合せとなってしまうというような。組合せの結果、いろんな状態になった個物がある。ということから必然的に導かれるのは、自然には欠陥というものはないということ。我々も自然の一部だから、それぞれ違いはあるけど、それだけ、ということになるわけで。  で、“存在の一義性”ということなんだけれども、そうそう、実体の変状が現れているのがこの世界なんだから、実体が“存在の一義性”ということなんだろうなと。  最近また、『存在の一義性』(スコトゥス)の本が目に入り、ついに初めて手にしてみた!デザインも大きさもいい本だ。でも、パラパラとめくって僕にはわからん世界だと思ったし、裏の7,000円という値段に、ビビって置いてしまった。  それでも気になって、ネットで、一義性、スコトゥスで調べてみたら、どなたかが書かれていたブログにヒットした。そこにはジル・ドゥルーズの『差異と反復』(財津理訳 河出文庫)の上巻の中の「一義的なものの三つの契機ーースコトゥス、スピノザ、ニーチェ」という項目について書かれていたのだった。おお、やっぱりそうだったのね、とちょいと感動。でも『差異と反復』という本は1ページ目から、何がかかれているのかさぱーりわからない本。1行読んで眠くなり、3行目までいくのは三日後だ(わからないまま)。まあその方が指摘されているp.117~読んでみるが、スコトゥスのところはやっぱりよくわからんす(前提となる知識がないと歯が立たないのはあたりまえだけど、面倒なのでそれはやる気なし)。で、スピノザのところに飛んで、いい文章に出合った。p.121「・・・実体が、もろもろの様態の力の度に即して、それらの様態のすべてによって等しく表現される限り、あらゆるヒエラルキー、あらゆる卓越性は否定されるのだ」。「それらの~限り」のところだけでももうよくわからんけど、「あらゆるヒエラルキーとあらゆる卓越性が否定される」というのは、グッとくる言葉ではないですか。この言葉に出会ってよかった。  そして思い直して『差異と反復』を最初から読み始めてみたけど、やっぱりよくわからんので今でも強力な睡眠薬です。  
2020/10/18
 10月16日金曜日に、高次脳機能障害の知人が母国へ帰った。彼は20年くらい前に日本にやってきて、その後脳腫瘍と不整脈で意識不明となって手術。そして10年くらい前に東京の病院に通うために上京した。私が知り合ったのは世田谷区の高次脳機能障害の方のガイドヘルパー養成講座の実習の現場。彼が上京してから3,4年後であろうか。その時のことは記憶にある。小声で日本語をしゃべる彫りの深い優しい感じの男性。買い物のお手伝いということでユニクロで、ズボンを買った。彼は腿あたりにポケットのあるモノを選んだ。薬を入れるので、ということであった。  それから2年位たって、当時時々手伝っていた事業所のスタッフから移動支援の引き継ぎということで、彼に再び会う。久しぶり!彼は覚えてないかもしれなかったが、私は知っているので緊張感はなかった。それからずっと彼の移動支援をしていた。6年くらいだろうか。彼の場合は、歩けるし、出かけるところに制限はないので色々なところに行った。東京はホントに色々なところがあり、かつ電車で移動出来て、自分でも初めて行ったところもたくさんある。観光名所、商店街、美術館やら博物館、公園、母国料理を食べに行ったり、中華街に行ってみたり。(もし地方で移動支援となるとこれはなかなか大変だろうと思う。利用者に身体的制限がなくとも、候補がない、交通機関がないということがつらいところだ。車の移動もいいのかな?よくわからない。)障害のせいかもしれない、性格なのかもしれないが、彼の弱気のところ、心配性のところ、こだわるところなどなど、「もー、そんなの気にしなくていいんだよ」などと最初は思っていたが、しばらくして、そういう人だもんねと、こちらが慣れた。そんな風に思うこちらの方の性格もあるわけだ。  高次脳機能障害の方の移動支援は利用者の障害が千差万別でもあるので、これが正しい、というような支援の方法はなく、支援者側の個性により、自ずと変わってくるように思う。その障害についての最低限の基礎知識の上で、後は利用者と支援者の個性によって関係性が変わるのだろう。と考えているのだが、これまた支援への考えは人によるのだろう、と思う。この「支援方法は人による」、という考えでいいのかどうかもよくわからないが。  最近、世田谷区の就労支援B型作業所ハーモニーにおられる新澤さん(直接の知り合いではない)という方(「幻聴妄想かるた」を企画、発刊された方)のTwitterで知った「急に具合が悪くなる」(宮野真生子、磯野真穂著 晶文社刊)を読んだ。その中に「関係性を作り上げるとは、握手して立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動のラインを描き続けながら、ともに世界を通り抜け、その動きの中で、互いによって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。」という文章がある。素敵な言葉だ。なんだかじーんときた。  母国へ帰った彼との支援関係とはそんな感じだったように思える。(そのような関係だったように思っていいよね、と思わせてくれる圧倒的に緻密で具体的で、考えに考えて紡ぎだされた言葉たち)  帰ると決めたその頃から、彼との長い付き合いからじんわりとした感情が湧いてきた。利用者と支援者という関係ではあったが、なんとなく寂しさのような感情も出てくるもんだ、と気づいた。母国で思い切り自分の言葉で話して、楽しく生きることを祈りつつ。
2020/09/13
 先週、「ブルシット・ジョブ」を読み、訳者、酒井隆史氏の解説の中に、「・・・『アナーキスト人類学のための断章』(以文社、2006年)は、グレーバーにとって3番目の著作であるが、・・・みずみずしくざっくばらん、かつ刺激にとんだすばらしい著作である。最初にこれを読んだときのおどろきを忘れない。」とあり、とても読みたくなって早速手に入れた。読み進めながら、ああデヴィッド・グレーバー、なんて素敵な人だと感激していたところだった。前衛と称する(される?)人々の高踏理論などは不要であり、むしろ低理論とでもいうべきものが大切なんだ、などなど。行動力と知性、そして人を思いやるやさしさ。写真を見て益々そう思っていた。優しい目だなあと。そんな風に思っていたところで、twitterで彼の訃報を知る。ええっ!ホントに!?信じられない。嘘であってくれと思った。1年くらいまえから、英語もよくわからんのに唯一海外の人でフォローしていた人だった。彼の思想、活動に関心があった。その彼が9月2日、59歳で亡くなった。悲しすぎる。とても輝いている希望の灯だったのに。本当に残念だ。  途中で止めていた「負債論」を最初から読み始める。読み始めてよかった。前の時は、あんまり分厚い本なのでビビって、ページをめくることに意義があると思っているような不純な読み方だった。読み返してみると、第1章から意味を汲み取っていなかったことが分かった。貨幣の通説ちゃぶ台返しがすぐに始まっていたのだ!今度は厚さにビビらず、読み終える先も考えず、目の前のページに専念しながら進むことにする。  高踏理論は不要、というグレーバー。身体を抜きにしたあーでもない、こーでもないという言説は山のように溢れている。ただの批判や批評、感想、印象、溢れかえる形容詞。そんな日常で毎日揺れ動く自分。“海に放り出されたコルク”(「GDアベセデール」の中でGDの友達とのやり取りで友達が言った言葉、だったかしら)のように。さてさてどんな活動をすれば良いのだろうか?考えることと活動が繋がっていくのが良いのだが・・・。  ここでまた「エチカ」に戻る。「第4部定理14 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれば感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。」この証明がまたいいんだ。「感情とはある観念ー精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である。このゆえに感情は真なるものの現在によって除去されるいかなる積極的なものも有しない。・・・しかしそれが感情である限り、・・・その限りおいてのみそれは感情を抑制しうるであろう、・・・」 まさに吹き抜ける風!によって地に着陸できるような気持になる。世界(自然)の内に生きる個物である限り、身体を抜きにして語ることには、どこか表面を滑る感じがある、ように思う。  そんなことを感じつつ、ふと日本の消費税という現実にある制度を考える。多分、的を得ていない表現だが、これは虚構としての悪が現実の脅威となって影響を及ぼしている、ようなもんだと思う。うーんちょっと違うか。頭で考えてしまった理屈だけで、身体性を考慮に入れていない最悪の税制だ、とでも言おうか(日本の場合)。  グレーバーならなんと言うんだろう。RIP。
2020/08/16
 最近何かの本か記事で、マーケティング資本主義ということが書いてあったような。私の使い方が正しいのかもよくわからずに勝手に思うことなど。産業資本主義の後、ものが溢れて需要が滞るのを、適当な言葉で煽って消費を促進するという、資本主義ということらしい(こんな意味でいいのかな?)。高度成長期もとっくに終わった後はずっとそれ。広告、キャッチコピーで、今これを買わなきゃ乗り遅れる的なノリで強迫観念を増長させて消費に走らせる。マスメディアも煽る煽る。次々とほとんど中身は変わらない商品が発売されてどんどん買わされる。まあ必要ないものを買わせないと資本主義としてはやってられない。20年以上前か、ある会社でビデオの発売元の宣伝担当としていた時、販売元との打ち合わせで、自分でコピーを作っておきながら、担当者の方に「完全に言葉がインフレ起こしてます」など臆面もなく言った記憶がある。その状況はあらゆるところでさらに加速し拡大しとどまることを知らない。金融資本主義もわけのわからん金融商品を作って売りまくる。中身は空疎。必要ないけどどんどん資源を使うし、加工もするから、そりゃ気候変動も起こりますがな。  コロナで現政権が空疎なものだとあらわになった。これはマーケティング政治といえるか。言葉だけは踊る、一見華々しいけど、中身ゼロ、みたいな。一応理念があるようなフリはする(政治なんで)けど、理念もキャッチコピーみたいなもんだとばれてしまった。多分ずっと前から景気も悪かったのに、景気が良いフリをしていた。古い産業界が力を持ち、彼らのみを生かすことに注力した。裾野が途方もなく広いのでそれは必要であったのだろう。それにしてもそれ以外はほぼ何もしてないといえる。コロナはそんな政権の超近視眼的で、何も起こさなかったことを明らかにしてしまったようだ。  などなどシャボン玉のように言葉が浮かぶ。  最近、「武器としての資本論」(白井聡著 東洋経済新報社)を読んだら、資本主義の内面化、ということが書いてあった。我々の思考が資本主義的な思考であること、それが歴史的なことであること、つまり相対化する視点が必要であり、可能であることを教えてくれる。  脈絡なく、シャボン玉的言葉が浮かぶが、他に思ったのは、スピノザ「エチカ」の共通概念ということについて。ドゥルーズが「スピノザ 実践の哲学」のなかに、「・・・その意味は数学的というよりむしろ生物学的であり、存在する体どうしの適合・一致や構成的統一の関係を表現している・・・」とあった。これは素敵だ。共通概念は人とモノ、人と人にも適用される概念。ケアの仕事も共通概念というところからも何か考えられる気がしないでもない。  シャボン玉のような言葉が空疎でなく、体がそう考えて、それが浸透し、これから何かの実践として心身が動き出す、ということになるのだろうか・・・。よくわからん言葉ですね。  猛暑により蒸発してしまう可能性は大でありますが。

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