2024/05/26
 2月に、大学時代のフェンシング部、数十年前の当時は同好会だったが(何代か後の後輩が頑張って部に昇格させた。その後人が集まらず今は休部?)、同期の主将であったKが声がけして飲み会が開催された。その後、近場(東京付近)のもので改めて飲みませんかとのS先輩の提案により、先日2回目が行われた(1回目の飲み会には木更津のY、茨城の後輩Fが参加したのだが今回は近場ということで二人にはお声がけしなかった。すみません)。参加者はS先輩、前回コロナで欠席したT、主将K、そして私の4人。S先輩はサーブルのリーダーでもあり、Kもそれを継いでサーブルのリーダー。Tはフルーレ、私はエペのリーダー(私は強くないけど、まあ割り当て的に)。ということでフェンシングの話しになるかと思いきや、もちろんほとんど出ない。いや、少しあったな。Tはエペも旨かったから、最近の日本人エペ人の活躍を知っていて、現代エペが昔のスタイルと全然違うのだということを教えてくれた。今度どこかで映像でも見つけたら、改めて見てみよう。  ずっと前から思っていたことだが、対人スポーツの面白さというのはあるなあと感じていた。攻撃と防御、剣があるとはいえ、直近に相手がいることなので、先方の動きを見ないと始まらない。このやり取りはケア現場にも少しは関係するような気がするが(それが最大に生かされているかはこちらの能力不足により疑問だけど)。本能的に動くしかほぼできなかった私のフェンシングはコントルアタック(カウンター)のタイミングを待つスタイルだった(スタイルと言えるのかしら)。それから数十年後!にふと、しかし、攻撃の糸口はどうやって作るのだ?と思ったことがある。待ってるだけでは受動的なままではないか。まあつまり、戦局を打開する戦術が無いわけですね。考えてないということで。考えるのが苦手。本能で体を動かすのが好き、反射神経だけで反応するしか能がなかったようだ。戦術を立てて戦うというのは、身体練習とは違う練習や訓練が必要なんだと今更に思う。いやはや。  前置きが長すぎた。飲み会で感じたことは(いや振り返ってかも)、私がその当時のまんまで話してるということだった。今の状況は皆それぞれなんだが、今の話をするにしても、昔のままのありようで聞いたり話したりしている。同期も先輩も、私の中ではその当時の状況のまま。身体的変化や立場の変化はもちろんあるんだが、それは何か仮象であるような。。。同好会といえど体育会だったので、4年間は濃密な時間過ごしたと思う。そんな時間を過ごした身体が記憶しているとでもいえるのかもしれない。身体的記憶の方が表象を蹴散らすとでも言おうか。高校の同期会もそうだった。古い経験なのにその時のままのありようで聞いたり話したり。。。スピノザの『エチカ』には、人は身体が何ができるか知らない、とある。確かに。当時のありようで聞いたり話したりするのは、意識してやってるわけではなくて、ただそうなっているだけだ。これはコントロールできないもので、どうしようもない。確かに数十年の空白があるので、当時のままで対応せざるを得ないということもあるかもしれない。とはいえど、何十年も生きてきて何かが積み重なっているとは思うのだが、積み重なっているであろうところから対応しているように感じさせるものが希薄なような気がする。意地悪な見方をすると、かつてのありようで接するという無意識的欲望が優先されたのだ、ということもあるかもしれないが、そうすると意識的にコントロールなど出来るものは実に少ない、ということになるんじゃないかと。つまりは、身体が表現しているということで。スピノザは表象の中に言語も含めているので、これまたなるほどなと思う。話す言葉や頭に浮かぶ言葉など、身体の変状がそうさせるだけで、身体の傾向がそう仕向けてるとしか考えられない。  そうすると、友人とは不思議なものであるなと思う。親友とはこれまた更に不思議度が増す。親密さの実感は言葉で説明できないものだと改めて思った。またまた『エチカ』(岩波文庫)から、「第2部定理43 真の観念を有する者は、同時に自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。」、備考に、「あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。」とある。真理の説明、解説は真理そのもとは違うわけで。友人とは、親友とは何かは説明できないですね。すんごい長い前置き2段でしたが、最後の段落が主題でした。
2024/03/26
 かなり前に『探求Ⅱ』を読んでいたけれど、最近、他の柄谷行人の著書を読んで勢いづいて再読しようと手にした。柄谷氏の文体は一文が短く、断定的な調子なので読んでてとても気持ち良いということにも気づき、読むことに惹き込まれていく。...
2024/01/28
 昨年12月にあの『構造と力』(浅田彰著)がついに文庫本(中公文庫)となったので、やっぱり買ってしまった。その昔、途方もない衝撃を与えたこの一冊。そして多くの人が彼の言動を追っかけたのであった。私もその一人。いつだったか、浅田彰氏、島田正彦氏の対談がどこかのホールであって、それは『天使が通る』というお二人の対談本の出版記念のイベントだったろうか。私は浅田彰氏のAquirax Asadaのサインの入った本を今でも持っている。もう赤茶けてしまった。他のイベントとごっちゃになっているかもしれないけれど、その時の司会は辻元清美氏(現立憲民主党議員)ではなかったろうか。ピースボート主催者であった辻元さんのものおじしない司会ぶりも何となく覚えていて、浅田氏にピアノ即興をお願いして、浅田氏も実に滑らかな演奏を披露してくれた貴重なイベントだったと思う。別々のイベントがごっちゃになってるかな。。。いや少なくともそのようなことがあったのは間違いない。また、他のイベントの記憶もあって、あれは紀伊國屋ホールだったろうか。柄谷行人氏と中上健治氏の対談、司会は浅田氏。いやこれも(登壇者については)勘違いかもしれない。それでも鮮烈に覚えているのは、浅田氏が随所で対談について解説されるのだが、その簡潔かつ切れ味が凄すぎて、浅田氏に対して歓声と拍手が起こったこと。聴衆は皆、鳥肌もんの感動を覚えたのであった・・・。  さて『構造と力』を読み返してみて、これは今でも皆読むべき本だと改めて思った。当時もそうだったけど、私は主に資本主義ステムが、あらゆる差異を公理系に、つまり金の流れに変えてしまうというものだということをよーく理解させてくれる本と感じた。言うなれば儲かれば何でもあり、がこのシステムなんで、そうするとあらゆるものが消費対象としてしか考えられなくしてしまうので、当然世界は平板化してしまう。あの時代はまだ自分にも面白かったように思う。若いし、色々なものがどんどん出てきて、差異が金に換えられてもまだ新鮮なものがあった。しかし今ではもはや、ちょー無理々にひねり出された差異、もはや面白さも新鮮さもないものが溢れる時代となってしまった。と、私にはそのよな理解を促してくれる本なのでした。この本は自分のモラトリアム人生の推進力の一つだったもしれない、とも思う。  ところで元日の地震災害に対する政府の対応は酷いものだ。初動の遅れといい現在の動きといい、なんじゃこれはとほとんどの人は思っている。志賀原発のダメージのヤバさが隠蔽され、実は大変な状況だったので、初動を遅らせたという話もある。キックバック問題も酷すぎて、日本終わってんなと思う。いや自民党と批判しないメディアは終わってるのだ。他、色々ありすぎて端折ってしまったけど、これらは、権力者がやるもんだから「今だけ、金だけ、自分だけ」の資本主義的な価値の極大化の最悪な状況なんだろうな。  最近、twiiter界隈で、改めて注目されている『ガメ・オベールの日本語練習帳』(ジェームズ・フィッツロイ著/青土社)を手に入れて読み始めた。まだ読み始めなんだけど、「自分が何になりたいかを考えるのは、普通の人間には、まず無理で、自分の心の中にある磁針が自分のやりたいことのほうを向くように自分の心を開いてリラックスした状態にして、少しでも夢中になれることのほうに自分の足を向けていくのがよさそうです。」(p.39)とあった。“自分の心を開く”・・・、難しいことだけれど、素敵な文章なのでしみじみ。  資本主義の磁気嵐は世界中で吹き荒れて、日本では権力者がそれに汚い息を吹きかけてさらに威力が増している。磁針は定まり難く、いや、日本では人の磁針がぶっ飛ばされてしまった状況になっているのかもしれない。
2023/11/25
 國分先生の『スピノザ-読む人の肖像』をまた読んだ。ぐいぐいと切り開いていく迫力に改めて感動する。凄いところ満載なんだけど、今回は第三種認識について「・・・そもそも私の意識が私の身体を出発点として私なりに自己と神と物を経めぐって形成してくのが第三種認識なのであるから、その成果は、私にとっては明晰判明であっても、そもそも言葉を超えている。」(p.342)「また、第三種認識が過程であるということは、直観がある程度の時間をもって形成されることをも意味しているだろう。直観を瞬間と結びつけるのはロマン主義に特有の考え方であるが、スピノザの第三種認識をそこから解釈することはできない。」(p.342~p.343)とある。僕は、ロマン主義的に捉えていたのだと思う。だから、第三種認識を別次元の常人が到達できない境地のような認識としてなんとなく考えていたんだろう。それを身に付けたらすごいよね的な、いわば単なる憧れのような境地として。  『エチカ』は哲学書なんだけど倫理実践書と思っており、哲学者でない自分としては到底哲学として『エチカ』を考えることはできないので、日々の生活に直結する書として読んでいるわけです。そういう者が、第三種認識をロマン主義的に捉えて、なんだか拝む対象のようなものとして憧れていたのでは、いつまで経っても曖昧なまま。実践の書なのに、踏み出すための扉を見つけてない状態。『エチカ』をよく読めば、第三種認識はロマン主義的直観では決してない、ということがわかる・・・わけではなく、國分先生の言葉によって実践の道が提示された。こういう提示が満載で、これまでのスピノザ本とは全く違う。  『はじめてのスピノザ』(講談社新書)では、フーコーがデカルトとスピノザの真理観の違いに注目したことが書いてある。「フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。」(p.151)。その後の方での「精錬の道は自ら歩まねばならない」という部分はとりわけ胸を打つ。  僕自身は、世の中にはあらかじめ正解なるものがあって(まあ試験の答えみたいなもの)、それを見つけるのが正しいとずっと思ってた方で(だから、その時代時代の正解に右往左往する)、いつまでも真理からは遠いまま。だから、真理を見出すつもりなら、主体の変容が必要であり自身の精錬が必要だということになる。  國分先生は意識にとりわけ注目して、意識がなければ主体の変容を引き起こすことはできないと提示されている。「意識が私の身体を出発点として・・・第三種認識を形成する」。精錬の道はキビしいのお。しかし、実践への道は提示されたと言える。
2023/09/23
 『千のプラトー』(G・ドゥルーズ+F・ガタリ/河出文庫)を読み直そうと開いてみたけど、書かれていることが相変わらずほぼわからない。上巻の裏表紙には「ドゥルーズとガタリによる最大の挑戦にして未だ読み解かれることない比類なき名著。」ってあるんだが、こちらは読み解くどころか、それ以前の問題でほぼ歯が立たない。そのむかーし、最初の章「序ーリゾーム」がだけが単行本で出た時に開いてみた時には、読めなかった。字面を追うのだけれど追うだけに終わった。数年前に文庫本のこの章を読んだときも同じ。でもって今回はどうなんだろうと思ったので開いてみたら、ちょっとだけだが、なるほどな、と思うところがあった。しかし3章の「道徳の地質学」になるとやばいね。勝手なイメージさえわかない。またしても字面を追い始めるだけになりつつある。(でも『ドゥルーズキーワード89』(吉川泰久・堀千晶/せりか書房)は役立ってます)  そんなところでこの本を引き合いに出すのはあまりにおこがましいのだけれど、「序ーリゾーム」を読んでた時に、ケアについてつらつらと考えてしまった。障害のある方の介助をしているというのは、まあケアと呼ばれる行為なんだが、その行為はなんなのかねと。ケアを称賛するとか、楽しいものとか、いややりがいのある仕事なんで、とか形容するんでなく。  利用者と介助者は、ケアのなかで、接続される。決められた行為を時間内に遂行するのだが、それにしてもミクロなやり取りは計り知れない。その時のお互いの気分、体調、他諸々の条件も接続される、というべきか、接触するというべきか。。。手を取る取られる、離す離される、体位を変える体位が変わる、話しを始める始まる・・・。ある日は手が滑る、離しが早い遅い、体が重い軽い、話しが重い軽い、いや二項対立なんてことでなく、無限のグラデーション。この行為自体を抽象化するのは無理だろう。必要とされる行為の遂行を公理系というなら、そこから派生する逃走線というか、水漏れ的なものが常に発生している。そんなことは当たり前で、遂行がトータルとして上手くいけば良いのだ、いまさら何を言う、と言われるんだろうなあ。  機械が接続され離脱するんだが、各機械が日々変化する機械で、その接続状態があるだけで、状況は形容不能ということか。これを提供する側がそれを好きか、楽しいか、やりがいのあることだと思うかとかは人それぞれなのでそれは別の話し。  だからなんなのだ。いや、そいういうものだ、という認識が「リゾーム」を読んで生まれた、ということですかね。  ところで、先日『コモンの「自治」論』(斎藤幸平+松本卓也編/集英社)第3章の杉並区長の岸本聡子氏が書かれていることに頷いた。「・・・先述した地域政党「バルセロナ・イン・コモン」はデイケア・サービスのコモン化を打ち出しました」(P.101)。「先述した通り、介護や保育、清掃などの<ケア>の分野は、労働者が一番抑圧されやすい職種です。ここをあえて市の直営でやっていくのは、主に労働者を守るためでした。」(P.106)、とある。介助は利益追求の民間がやるのは無理があると思う。サービス単位が決められているものは営利企業に向くわけがない。それを実感している。売上、利益の増大、民営とは基本的にはそれを追求するものだ。しかし、単位が決められたサービスにおいて、かつ様々な条件があって利益を出しづらい構造になっているので、利益をねん出するには、内向きの合理化や、利用者の拡大を目指すだろう。だがそれは人件費の抑圧や、逆に管理業務の増大による人件費の高騰、などなどにつながる。雇用者の給与を上げるためにあるとされる処遇改善加算などは、実にさもしい制度だし(加算を出してやる、ただしバリバリ管理するぞってことで)。しかも処遇改善加算の一部をなんで利用者が負担するのだ。おっと別の話になってきた。話を戻すと、サービスに対する対価が介助者に直接払われればよいではないか、と思うのです。民営とは会社が中抜きして経営を維持するのだから、被雇用者に支払う額を押さえようとするのは当然の行為だ。給与額は相場感を皆で探っての結果でしかないし、他を出し抜くのもその結果でしかない。  公共事業としてやって介助者に直接給付なんて、膨大な管理業務で無理、だから民営も許す、となったんだろうが。国民の口座さえマイナンバーカードに紐づけて、税逃れやら、眠ってる貯金を見逃さんぞというような、後ろ向きで性悪説でなくて、だったら直接給付とか国民が楽になるような優しい方向でいきましょうよ、と言いたいね。現政権に期待はもちろん全くしてないけど。  それから消費税については、逆進性が強いし、もう論外なほどに悪税だと前から思ってるんだけど、さらにインボイスだって。あきれる。管理、監視、途方もない業務の発生だ。消費税は医療法人など非課税収入を主に売上とするところにはさらに過酷な税だ。必要な物を買ってもそれに払った消費税は費用として控除されないのだ。実際にお金は出ているのに。そりゃ難しくなるね経営が。それに、ガソリン税やたばこ税などににさらにかかる消費税とはなんじゃらほいなと。ホントに国家の暴力装置だね、税金とは。
2023/07/23
 『神さまと神はどう違うのか?』(上枝美典/ちくまプリマー新書)をなでるように読んだ。P.93の「・・・「がある」は「である」ではないので、その「何であるか」を語ることはできないのです。」、というところはそうだよなあと思った。『RRR』の面白さが何であるかを語りつくしても、自分が感じている胸躍る面白さに到達しない、みたいな感じに近いような気もして。  著者は参考文献のひとつに『エチカ』を上げてるけど(P.236)、「・・・最初からゆっくり読んでいくのが最良です。」と  としている。僕もそちらの読み方が性に合っている、かな。第一部の「神について」から、“世界(実体=自然)が存在する”、ということをベースにして展開されてるので、ベースがあることを意識しつつの方が、読み進めていく上でとまどいが少ないような気がするので。  とはいえ、スピノザが現実存在を含めて存在というのをどう捉えてるのかは、スコラ哲学の存在についての考えを受け継ぎつつスピノザ独自の考えを展開している(らしい。と思っていいですかね)ので、自分にどうあてはめるんじゃ?、というところはある。あるにはあるんだが、『エチカ』の哲学・倫理になぜか惹かれ(なぜかわからない)、それをできれば実践したいと思うものとしては、“世界が存在する”ということを、実感したいと思うわけです。中々言葉でうまく言えないのだけれど、この“ある”というのを“わたしがある”という前に、“わたしがあろうがなかろうがある世界”を前提にすることができた時に、それこそどんな生き方になるのだろーか、ということだろう。  世界とは「何々である」といくら説明しても実感できないのであり、「がある」というところには到達できない。しかし、「である」をこねくり回すのも「がある」に近づく手ではあるのかもしれない。何か天啓のように「がある」ことを直観できることを待つしかないのかもしれないけれど、天啓を受ける準備も必要なのかな、という考えもありなんだろうとは思うけど。 文章が、かもしれない、とか、だろうか、とか、気がするとか、もうー、まだるっこしいね。まあ早い話が、「理屈じゃねえんだ、コノヤロー!とっととわかりやがれ!」的な欲望。  すごく怠惰なので、そのあたりの本をむさぼり読む気力がなく、好きな『エチカ』を読んで、ちょっと気になるところが出てくると、足を延ばしてはみるものの、峰々は高く、登りの手前で景色をみて引き返す状態。知を得ようとする無限後退(後退と言うのかは置いといて)は僕には無理。心身の夏バテに『エチカ』を開く無限ループ!
2023/05/27
 いやー、何度も頷きながら読んだ。ここのところ、日本の閉そくした状態が息苦しいなあと感じ続けているので、その理由の一端が鮮明にわかってとても有難い。既得権益層がいかに日本を酷いものにしているか。自民党、経済団体、宗教団体、官僚、マスメディア・・・。国民をないがしろにしていることに絶望するね。マスメディアについては特に言いたいな。他の既得権益層は露骨に利益誘導することはわかる。マスメディアは権力の横暴には批判的になっても良いと思うのだが、逆に阿っている。時に政治批判をしているように見せて、実はがっつり政権の味方だ。この偽善ぶりが甚だしい。人々の目にする機会が圧倒的に多いためにその罪は大きい。こりゃもう洗脳だ。戦後、報道機関としても長いこと君臨し続け、じーさんばーさん世代はマスメディアが言ってることは何でも正しいと思ってる(人が多いと思う)。政治的な無関心を全世代的に植え付けているのもマスメディアだ。日本の滅びを加速させてる。そりゃスポンサーありき、電通ありきで、身動き取れんのかもしれないけれど、(じゃNHKはどうなんだといえばこれまた酷いことになってて)、結局自分の首を絞めてるんじゃないのかなあ。でもこの仕組みでは無理なんだろうな。。。官僚の上から目線も、縦割りの弊害もそうだし、内部からの変革なんてできてたらもうやってるだろうしね。というようなことを思うことによる閉そく感の増大かな。  映画『RRR』が日本でロングランだ。私も5回観てしまった。100回以上観てる人もいるらしい。勝手な想像なんだけれど、コロナ禍に加えて、特に日本の閉そく感は増してしまったので、日本人にこの映画は強烈なカタルシスを与えるのではなかろーか。そんな大雑把な・・・。例えば決めポーズシーンのカッコよさとかも魅かれるのかな。見えを切る、という言葉があるので日本人は特に感動するのかしら。。。ストーリーやキャスト、音楽、踊り、がいいんだと言ってもねえ。確かに。でもそう言いいながら、そのどこがいいのかうまく説明できん。誰かから説明されても、そうだそうだと思うだろうが、そうだと思う前に既に魅かれてるので、説明は後付けだ。『エチカ』に、善悪は、先に喜びと悲しみの感情があって善悪は後付けだ、とある。この映画は何々ゆえに最高だ!というのは既に身体的に喜びと感じてるからだものね。かつその喜びと感じてる原因を我々は知らない。  おっと『政治はケンカだ!』から逸れてしまった。閉そく感を結果として意識する。ではその原因は何か。。。「愛とは外部の原因の観念を伴った喜びで、憎しみとは外部の原因の観念を伴った悲しみ」(エチカ)と、閉そく感は外部の原因の観念を伴った悲しみ、かなあ。しかし、外部の原因は無限に凌駕される(エチカ)、と・・・。
 『エチカ』新訳は淡々とした訳で、すーっと入ってくるという感じがする。そんな感じを抱きつつ、以前にも書いたことのある、個人的に気になっている第5部定理23の備考の中の、ある部分を読む。「じっさい事物を見たり観察したりする精神の目は、もろもろの証明そのものなのだから。」。畠中尚志氏の訳は「つまり物を視、かつ観察する眼がとりもなおさず〔我々が永遠であることの〕証明なのである。」ドゥルーズやフレデリック・ルノワールの解説ではたしか、論証とは精神の目だ、というような表現だったと思う。論証とは精神の目、という方が自分にはわかりやすいと思ってたんだけど、前後の文脈からするとなにかしっくりこない気もしていた。といいつつ、同じことを伝えようとしているのに、実は自分が全く分かっていなくて、大勘違いという可能性もあるのですが。個人的には今のところなんか違うような気がしてるので、まあ少し違いがあるんじゃないかな、という前提で考えることにしよう。  『「神」と「わたし」の哲学』(八木雄二著/春秋社)の中に主観的真理ということが書かれていて、P.161「わたしは、真理には、客観的(対象的)なものと、主観的(主体的)なものと、二つあると言う。なぜならスコトゥスによって提示された「直観認識」は、主体的に直接的であって、まったくの「主観」だからである。」とあった。  スピノザの第三種の認識は直観知だった。ドゥルーズは第5部は第三種の認識によって書かれていると、書いてたと思う。そうか、精神の目は第三種の認識からの精神の目、ということなんだなと思い至る。それだから、その目から物事を見る、観察するというのは、直観認識による真理の把握、ということだと考えていいかしら。  スピノザは言葉も表象にすぎない、と書いている。幾何学的証明は言葉で進めるしかないが、これは第2種の認識(理性、共通概念)によって表現される世界。確かに一般に理解されるようにするにはまずは言葉で表現するしかない。しかし、真理に近づく方法ではある。けれど、「おお、そうなっているのか!」とか、「おお、そういうことなんだ!」というような心身全部で実感するものの真理(=主観的真理)は、言葉だけで表現されるものではない。ということなんだろうな。  という考えからすると、上野修氏訳で読み進めることができる。ただし、字面を追っていってもよくわからない。なんとなく読んでしまい、なんとなくぼんやりしたまま進んでいくだろう。  そんなことを考えつつ、この直観認識に至る、というのは「稀であるとともに困難である」(畠中尚志氏訳)よ。
2023/01/28
 年末年始に山口市の実家に帰省。両親のいないがらんとした家。姉が時々来てはメンテナンスをするくらいの家。日本の家は寒い。冬の実家は寒いとわかっていたし、温める人もいない現在だから、こりゃ冷えるなあと思って、駅に着く早々ホームセンターでプチプチを買った。木枠でガラス1枚の窓に貼りまくる。多少は効果があるのではなかろーか。蛇口から出る水は茶色だった。しばし出し続けるが鉄サビの臭いが当分残る。不在の家の現象に少々しんみり。台所の水道は根元から水漏れ。うーむどうしたもんかと思ったが、しばらくすると止まる。恐らく水を流す人がいないので、パッキンが乾燥して止水できない状態だったのだろう。水が染み込むとパッキンは膨張してその役目を果たし始めたと考える。まあいずれ変えなければならんだろう。数年後は実家で暮らすつもりだが、メンテナンスを考える機会でもあった。この度は正月を祝うことはないが、姉夫婦、その子供夫婦2組、その子供たち4人がやってきて正月に宴会。これは賑やかで楽しく過ごせた。田舎の家は皆が集える場所がある。昔ながらの季節の集いがあるのは、不在の家を明るくした。  そして東京で1月が進む。『バーフバリ』『マガディーラ』の大ファンである私と連れ。ついに『RRR』を新宿ピカデリーで観た。ゴールデングローブ歌曲賞も受賞し、ロングランがさらにロングラン、1番大きいシアター1での鑑賞となった。すごいじゃないか!ネットでは既に大盛り上がり、シーンも、音楽も、主役二人も絶賛だ!『マガディーラ』で知ったラーム・チャランが途方もなくかっこいい。連れは特に『マガディーラ』ファンなので私の数倍感動した模様。生まれて初めて3回見に行く。品川のIMAX。そして新宿バルト9のドルビー!ファンはブルーレイを心待ちにしている。私たちもだ。そしてまた繰り返してみるのであろう。今のところ、IMAXでの奥行きを感じさせる画面が良かったと思っているが、そんなのは些細な違いなので、小さな感想というまで。  ところで『マガディーラ』で100人の敵と戦うシーンで、一瞬静かになって流れる音楽、その歌詞を読んだときに、これは『バガヴァッド・ギーター』的だなあと思っていた。『バガヴァッド・ギーター』は時に読んでいたのでなんとなく。『RRR』ではダイレクトに、『バガヴァッド・ギーター』からの言葉が語られていた。ラーマ役のラーム・チャランが監獄で言うセリフ『責務は行為そのものにある。その結果にはない・・・』のところ。(上村勝彦訳は職務だけど、ほぼそのまんま)いやーこれがまた泣かせますね。『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が取り入れられているのはインド映画ならではだろうなあ。いいねえ。本国では取り入れられ方に不満のある人もいるらしいが、それはそれ。私たちはとても楽しめた。  そんな1月であるが、ものすごい本に出合った。『<個>の誕生』(坂口ふみ著/岩波現代文庫)である。この本の解説を書かれている山本芳久氏のTwitterをたまたま見かけて知った。まだ途中なのだけれど、坂口ふみ氏の途方もない知識と深く繊細な思考。まだ言葉がまとまらないんだけれど(いつもだが)、まずはそこに驚愕する。そしてキリスト教教理がどのように練り上げられていったかに眩暈がする。数百年をかけて論議されてきた教理、あまりの微妙な違い、だがそれが重大なことであり、徹底的に練り上げられていく過程。読んでてわけがわらなくなる。しかし、そのようにして西洋の<個>という概念が築き上げられていったのだろうと思う。(現在、第4章「キリスト教的な存在概念の成熟」の途中なんで、よくわかっていないまま書いてます。取り急ぎの驚きの感想までということで。)この<個>というものが、西洋世界の人々に深く浸透しているのだろうし、その<個>という概念が世界に行き渡っているから、我々もその上で考えているのだろうな。日本でも西洋を真似し始めた時からそれは考えざるを得ない概念だろう。それに影響を受けている、ということに自覚的にありながら、つまり、<個>という概念が深々と根差したものではなく、無意識的なものとして身についているものではない、ということに自覚的でありながら、日本人として改めて自分を考えてみる、ということが必要なんかな、と思うようになりました。  余談だけど(余談しか書いてないか)、そんな世界では、スピノザの著書がいかに許されないものだったのかがより感じられるようになった。スピノザ・・・すごい。  もう一つの余談、本書あとがきに、「・・・同僚の畠中美奈子、岩田靖夫の両教授にまずお礼を申し上げたい」とある。おお、あの『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫)にある「思い出すままに」の著者、畠中美奈子氏、畠中尚志氏の長女!國分先生がお会いになられたその方!ではないか!そこにも何か感動するものがありました。  冷える1月に熱い感動話でした。
 國分先生の『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)は、すごい本だ。まずはそういう感想。何度も読まなければならない。僕は『エチカ』が好きなので、それについて書かれているところをとりわけ繰り返して読むのだけれど。感想を追加すると、鑿の一閃、揺るぎなき彫刻、によってスピノザ哲学・倫理の輪郭がガチっと現れる、とでもいう感じ。今までほわっとしていた姿が明確に削り出されてくるような。  挙げればきりがないけど、P.188からの、「「意識は原因について無知である」という単なる否定的な説明に留まることはできない。・・・意識は目的を知っているのである。・・・」。鑿の一閃だ。スピノザ哲学、倫理を実践するためには、考えを進めていかなければならないという決意。『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)p.124では、「意識は行為において何らかの役割は果たせるのです。」というところからより実践へ向けて彫り進められる。  『はじめてのスピノザ』P.122、「では意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として提起しています。」から、『スピノザー読む人の肖像』P.195「・・・しかし、あらゆる観念の観念が意識であるわけではない。」ドゥルーズの解釈からのさらなる踏み出しによって、より実践的な行為へと導いてくれる。鑿の一閃、揺るぎなき彫刻刀の進み。  P.346について書くのははやすぎるかもしれないけれど、すんごいんだなあ。「・・・言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。・・・だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書は本当に実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである」。そして、國分先生も言葉を尽くして語りつつ、我々の倫理の実践が大事と説く。  この本をまた形容するなら、『エチカ』を自転車的乗り物と考えると、最初から進むにはギアがなくて重すぎる。5段ギア的である國分先生の本を装着して、進みやすくしながら段々ギアを落としていく。そして『エチカ』をノーギアで漕いでみる。時に坂道ではまたギアを入れて進み、いつかは『エチカ』号と一体になって進む、そのための最強のギアだ、という感じでしょうか。僕なりの形容でしかないですが。  もう何年も前に『1945年の精神』というDVDを発売するときに、ブレイディみかこさんのご提案により、國分先生の映像を撮るという、ありがたい機会に恵まれた。國分先生のご自宅にお伺いし、撮影する予定だったが、あいにく道路工事の大きな音によってご自宅での撮影は断念。近くの公園での撮影をご提案頂き、そこまで歩いていくことになった。先生はその頃『中動態の世界』の最終校正の時期だったと思う。おぼろげな記憶なのだが、先生はその本の主題について考えることによって、スピノザについてどうしてもわからなかったことがわかるようになった、というようなことをおっしゃっていたように思う。僕には全く分からなかったので、何も言えなかった。僕は話をそらすように、スピノザの「永遠の相の元に」というのはどういうことなんでしょうか、という質問をした。いやあ素人がいきなり思いつきでしてしまった。先生は「それはまたにしましょう」と言ってくれた。それは今説明しても長くなるし、それを問う前に僕にはまだ考えることがあることを、さりげなく教えてくださったのだと思う。  『エチカー読む人の肖像』P.340の永遠性についてのところ。自身のその時の記憶もあって、この鑿の一閃に感動している。

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