2018/10/02
 プールで泳ぐのが習慣となった。ずいぶん昔、どこかのフィットネスクラブに通っていたころ、インストラクターがなんとも優雅に泳いでいることに衝撃を受けた。クロールでゆっくりと、今表現するなら、ワンストローク、ワンキック。バシャバシャするバタ足は全くなし、水しぶきほぼ無し。4拍左右の息継ぎ。潜水艦が浮上して静かに進んでいる、または、イルカのようなのが、超ゆっくり進んでいるようなイメージ(昔のことなのでイメージふくらみ過ぎたかな)。 それ以来、マラソンのように、いや歩くように延々休みなしで泳ぎたいと思って、それをイメージしながら泳ぐようにした。これが初めのころ難しかった。バタ足から解放されるために、手を伸ばしてぷかぷか浮かぶことから始めて、足は動かさないで、腕をボートのオールのつもりで前へ進むようにして。。。その感覚がなじんだら、足は腕のタイミングと意識して1回ずつ動かすようにしてみる・・・。それからほぼ10数年、まだまだぎこちないけど歩く感じで泳いでます。  幼いころの補助輪なしの自転車に乗る練習を思い出した。多分、補助輪付き自転車に乗った記憶がないから、姉の使っていた24インチくらいの大人用で練習するしかなく・・・、まあできないできない。足が地に着いてないもんだから、倒れるは、田んぼに突っ込むは、痛い怖いで、何とか乗れるようになったのは、なぜだかよくわからない。 さてずいぶん前のことだが、自分の子供には子供用自転車があって。補助輪がついていた。いつの日か、公園で補助輪外して自転車乗りの練習をすることになった。バランスを取りつつ、足をペダルに乗せてこいでみる、いざとなると足が着いて倒れるのを防ぐ、というの、ああ、なんて素敵な練習方法なんだ。ものの20分もしないうちに乗れるようになったではないか!僕もこんな練習をしたかったなあ。子供はその後一輪車にまで乗るようになり・・・いつの間にか大人になった。  そんなことを日曜の朝、泳いだ後につらつらと思い出した。スピノザは、実体は必然の連鎖で動いているわけだから、その中にある人間の自由を認めてない。自由と思うのは、あらゆる連鎖とその法則、その及ぼす結果を全て把握できる能力がないからだ。人間が自由か自由でないかの論議はよくわからない。でも、自転車を、一輪車を自在に乗りこなすとか、思ったように泳ぐ(僕はまだぎこちないです)とか、それは重力や浮力や推進力の法則を体が身につけて利用できるようになったということで、それが自由(自在)ってことでしょーか?とすると思考の自由とはどうなったときなんだろうにゃ。
2018/09/07
世田谷雑居祭りの季節が近づいた。今年が43回目、すごい。 4年くらい前、高次脳機能障害の方に教えて頂いてから、出かけるようになりました。...
2018/08/03
最近『なぜ今、仏教なのか』(ロバート・ライト著 早川書房)を読んでみた。マインドフルネスや瞑想についての本をいくつか読んでいたけれど、これは指導書ではなくて、本人の瞑想体験と瞑想についての論考。 感想の切れ端がまだ記憶にあるうちに。...
いやはや、何度読み直してもなかなか見通せないので、行ったり来たりしながら『エチカ』を読んでいる。 第5部定理22の「しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」という、本質、永遠性の相、表現する、観念、必然的、という盛り沢山な言葉にめまいを覚えつつ。...
何度も読み返しても気づくことがあるのは、読む側の意識が変わるからだろう。「エチカ」は「エチカ」でずっとそこにあるので。いやはや、このような書物に出会えたことは本当に良かったと思う。...
いやはや、まさしく噛んでも噛んでも味の出てくるとしか言いようのない書物。...
『エチカ』第2部定理10はこれまたぐっとくる。 「人間の本質には実体の有は属さない、あるいは実体は人間の形相(フォルマ)を構成しない」 ひゃー。第2部公理1は「人間の本質は必然的存在を含まない」この人がいて、あの人がいて、でも生まれない人もいる。ということだから。...
2018/02/25
2016年8月24日、吉祥寺のB&Bでのブレイディみかこ氏と國分功一郎氏の対談でのこと。ブレイディさんがケン・ローチ監督の「THE SPIRIT OF...
2018/02/16
グレン・グールドが好きな人は世界中にいて、僕もその一人。1982年録音の「ゴールドベルク変奏曲」のCDは死んだときに一緒に燃やしてほしいものの一つです。グールドの音の魅力の一つは、“聞かせてやるー”とか、“聞いてくれー”、とか“すごいだろ”とか、そういう聴く人に圧力をかけるものを一切感じさせない音なんじゃないかと思います。それと同じものを感じたのが、観蔵院美術館に所蔵されている両部曼荼羅。観蔵院の小峰彌彦住職が依頼して、日本画家の染川画伯が18年もの歳月をかけて完成された大きな曼荼羅図です。この曼荼羅図と出会ったのは「カラー版 図解・曼荼羅の見方」(小峰彌彦著 大法輪閣)によってです。京都の東寺に何度か行っていたので、曼荼羅図というのはなんちゅー不思議な図なんだろうと思っておりました。それで本屋さんで手にしたんですが、その曼荼羅図のあまりの美しに驚き、曼荼羅美術館にお伺いして本物を見たときには本当に感動しました。小峰住職他による徹底的な調査の上に、染川画伯が恐るべき精緻さで描いた曼荼羅図は日本一、いや世界一すごいと言っても過言ではないと思っています。そして、強くひかれた理由の一つに染川画伯の描かれた仏尊の表情と仕草があります。とても柔和でユーモラスな表情と姿なのですが(もちろん明王たちは怖い表情と姿ですが)、やさしいお顔や仕草が押しつけがましくないんです。言うなればそれぞれの仏尊の本質がそのまま表現されている、とでも言いましょうか。やさしさや怒り、笑い、などの感情がことさら強調されてドラマチックな絵はよく見ますが全くつまらないですよね。グールドの音と曼荼羅図ですが、何か同じものを感じています。
もう、15年くらい「エチカ」(畠中尚志訳 岩波文庫)を読み続けて、いつも携帯しています。読むたびに気づきがある。まあそれはわからないことの連続だからかもしれない。それにしてもなんちゅー発想なんだとずっと驚き続けているんです。実体とその属性、そして実体(神)が表現する無限の様態。思惟と延長という属性を考えるときに、ついつい2本(2枚、2種類的な)の別のものを考えてしまうのだけど、決してそうではなく、同じひとつ実体の現れが違うに過ぎない。心身平行論といわれると何か別のものが平行しているようについついイメージするけど、そうじゃない。これに気づくだけでもえらいかかってしまった。気づいてしまってその発想にまっこと驚いた。こりゃー、どう腑に落とす?わかった気がするがどう納得する?そして最近やっと、スピノザさんの考えた世界の地平に降り立つ、ということをまず試みながら考え続けようと思い始めてるところです。初めてのブログなのでずっと思い続けていることから始めました。あと、神は超越的な原因ではなく、内在的な原因なんだというのも、惚れる考えだなあ。“神”には違う言葉があてられることも可能なのだろう。