Xでフォローしているある方が、平尾昌宏氏とアダム・タカハシ氏の対談イベントの件を書かれていて、その中に「一番笑ったのはアダムタカハシさんの「スピノザはスピノザ学者よりも腰が低い」」とあった。興味をそそられ、対談アーカイブ「ふだんづかいの哲学」を見てみた。平尾氏はスピノザ全集第6巻の「往復書簡集」を翻訳されている先生。アダム・タカハシ氏はスピノザの手紙を改めて読まれて、相手に対してとても丁寧に心を込めて返信しているのでそういう発言が出たようだ。とても愉快なコメントで私もクスッと笑ってしまった。平尾先生は『エチカ』をどう読むかについての本を書かれたとのことで、恐らく来年出版されるのだろうな。楽しみ!!
平尾先生によると、スピノザ全集の企画はそもそも50年前くらいからあって、紆余曲折、5回出版社が変わって最終的に岩波書店になったということ。これまたすごいエピソードだ。「往復書簡集」の翻訳者は平尾先生と河合徳治氏。河合氏はお亡くなりになっているが、それくらい長い期間にわたって構想されていた全集であるがゆえに、そういうこともあるのだろう。河合徳治氏の『スピノザ『エチカ』』(晃洋書房)という『エチカ』についての概説書はコンパクトな本で、そうであるがゆえにか、『エチカ』の肝心要なところが凝縮されて、それが抜群の切れ味、かつ、いきのいい文体で書かれており、何度も読み返す。凝縮されているがゆえに立ち止まって考えることも多い。
このブログのタイトルは大仰なんだけれど、河合氏の本の序章の最後の文が「いよいよ『エチカ』の解題をその冒頭の諸定義から始めるが、それを読み解くカギとなる概念はもちろん<無限なるもの>(本では<>ではなくここに傍点)である。」とある。「もちろん」!ですと!。ここから背筋がピンと伸びる。ロケット発射台に点火されたような、ジェットコースターが頂点で止まってこれからスタートするような緊張感。スピノザの永遠、無限は、言葉で理解するだけではなく、腑に落ちた!と感じる必要があると思っている。とはいえ、それをよーく考えることがまずは必要。個人的表明ではない定義、公理、定理、証明について、ドゥルーズの『スピノザと表現の問題』の序論最後の文に「証明は不可視なものの表示であり、また自らを表示するものが注ぐ視線である。証明とはそれによってわれわれが知覚する精神の眼であると、スピノザが主張するのは・・・」とある(これまたすごい文章だ)。考えるには言葉も必要だ。定理証明が示すものは、人間の言葉を使用しながら、人間的な視点では語ることのできないものだから、有限な人間が永遠、無限を捉えるにはそういう方法が必要なのだろう。何度も読みつつ腑に落としたい、この永遠と無限というもの。そして腑に落ちたところから見える世界はどんなもんなんだろう。『エチカ』第5部後半はドゥルーズ曰く無限速度となっている、ので眩暈の連続だ。第三種の認識による(私的には、そういう認識によることだろうと思っていて)精神の眼で見ることそのものが諸証明となる・・・。
うーむ、永遠・・・。腑に落ちるのはまだまだ遠い。
ところで、9月25日はグレン・グールドの誕生日ということで、Xである方が、誕生日情報と「off the record/on the record」という映像作品からの一部分を紹介されていた(https://www.youtube.com/watch?v=WqwZC-yLYI4)。これはバッハのパルティータ2番の1楽章目を練習してる風景。途轍もない集中力とテクニック、カメラを全く意識していないグールド。途中に愛犬のあくびシーンが入るのが面白い。鳥肌が立つ映像・・・。これは永遠に残る!この場合の永遠は自分の感動を最大限に表現したものでしかないけど!