その昔、ドストエフスキーにはまって『カラマーゾフの兄弟』を新潮文庫で読んだ(と思う)が、最近中公文庫から出たということで改めて読み始める。まだ1巻目だけれど、まるで推理小説みたいだなあ、と思っていた。4巻目の解説が頭木弘樹氏で、それまた楽しみなのあるが、頭木氏が『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(春秋社)を出されていることを知り、また、氏のnoteには「江川卓も、『カラマーゾフの兄弟』を最初に読むときは、ミステリーとして読むのがいい、それも、どんどん飛ばして読んだほうがいい、というふうに言っていました!」とあって、やっぱりのやっぱりであった。それ以外で今のところで思ったところは、登場人物たちの自意識がとても高いところだろうか。常に自分の事を語る、語りまくる、だからといって自分の感情を制御できてるわけではないし、そんな自分を、けなしたりくさしたり、開き直ったりしながら語りまくる。若い時代に読んだ時には、欲望がコントロールできない自分に「なんでおれはこうなんだろう」、など思っていたその悩む心に突き刺さったような気がする。ドストエフスキーの小説はそんなところがある(と思う)。信仰、無神論のテーマは置いとき、生きる価値、意味、アイデンティティー、そして感情に揺れる人間、とその自意識。ドストエフスキー小説の登場人物の身体と精神の分離。というか、その前提としての当時の価値観の怒涛の変化が、人間の自意識をいやがおうにも高めていったのか・・・。
さて自分の自意識は今では何を意識しているのか・・・。よくわからないが『エチカ』に出会って、読み続けることにより何かが変わったような気がするが。
先日、プールに行くと、自閉症と思われる女の子(高校くらいかな?)が、父親か支援者か、と共に来ていた。時にちょっとした歓声を上げる。歩く、ビート番でのバタ足。その後完泳コースでクロール。上手い。とても美しい泳ぎだった。見た目でしかないので本当のところはわからないけれど、がむしゃらでもなく、力むわけでもないその泳ぎは、とてもスムーズだった。久々に気持ちが良い思いがした。なんだかこちらが嬉しくなってしまった。練習しないとあの美しい泳ぎはできないと思うが、きっと水に浮かんで泳ぐことが性に合っていたのではないか。
彼女は泳ぐことを楽しいのだとわかっている。楽しいとわかっている自分がいるのだという自意識は必要がない。泳ぐには不要だ。身体の喜びがある。というような思いは勝手な想像で、実のところはわからないが、そういう風に思いたいというのは、こちらの最近の傾向だろう。
自意識なるものが神経症的に働くのは多分やむを得ないのだろう。しかし規範を求め、規範に従うことを求めることが過剰になると病むように思う。世の中も規範を押し付けるが、その規範も怪しい。とはいえ、自分に合った人生スタイル、これで良し、というような具合にしていくことも中々難しい。
しかし、『カラマーゾフの兄弟』が面白いと思っている自分がいる。