『スピノザ-読む人の肖像』を再読

 國分先生の『スピノザ-読む人の肖像』をまた読んだ。ぐいぐいと切り開いていく迫力に改めて感動する。凄いところ満載なんだけど、今回は第三種認識について「・・・そもそも私の意識が私の身体を出発点として私なりに自己と神と物を経めぐって形成してくのが第三種認識なのであるから、その成果は、私にとっては明晰判明であっても、そもそも言葉を超えている。」(p.342)「また、第三種認識が過程であるということは、直観がある程度の時間をもって形成されることをも意味しているだろう。直観を瞬間と結びつけるのはロマン主義に特有の考え方であるが、スピノザの第三種認識をそこから解釈することはできない。」(p.342~p.343)とある。僕は、ロマン主義的に捉えていたのだと思う。だから、第三種認識を別次元の常人が到達できない境地のような認識としてなんとなく考えていたんだろう。それを身に付けたらすごいよね的な、いわば単なる憧れのような境地として。

 『エチカ』は哲学書なんだけど倫理実践書と思っており、哲学者でない自分としては到底哲学として『エチカ』を考えることはできないので、日々の生活に直結する書として読んでいるわけです。そういう者が、第三種認識をロマン主義的に捉えて、なんだか拝む対象のようなものとして憧れていたのでは、いつまで経っても曖昧なまま。実践の書なのに、踏み出すための扉を見つけてない状態。『エチカ』をよく読めば、第三種認識はロマン主義的直観では決してない、ということがわかる・・・わけではなく、國分先生の言葉によって実践の道が提示された。こういう提示が満載で、これまでのスピノザ本とは全く違う。

 『はじめてのスピノザ』(講談社新書)では、フーコーがデカルトとスピノザの真理観の違いに注目したことが書いてある。「フーコーはしかし、17世紀には一人例外がいて、それがスピノザだと言っています。スピノザには、真理の獲得のためには主体の変容が必要だという考え方が残っているというわけです。」(p.151)。その後の方での「精錬の道は自ら歩まねばならない」という部分はとりわけ胸を打つ。

 僕自身は、世の中にはあらかじめ正解なるものがあって(まあ試験の答えみたいなもの)、それを見つけるのが正しいとずっと思ってた方で(だから、その時代時代の正解に右往左往する)、いつまでも真理からは遠いまま。だから、真理を見出すつもりなら、主体の変容が必要であり自身の精錬が必要だということになる。

 國分先生は意識にとりわけ注目して、意識がなければ主体の変容を引き起こすことはできないと提示されている。「意識が私の身体を出発点として・・・第三種認識を形成する」。精錬の道はキビしいのお。しかし、実践への道は提示されたと言える。