『スピノザ―読む人の肖像』(國分功一郎著)を読みつつ

 國分先生の『スピノザー読む人の肖像』(岩波新書)は、すごい本だ。まずはそういう感想。何度も読まなければならない。僕は『エチカ』が好きなので、それについて書かれているところをとりわけ繰り返して読むのだけれど。感想を追加すると、鑿の一閃、揺るぎなき彫刻、によってスピノザ哲学・倫理の輪郭がガチっと現れる、とでもいう感じ。今までほわっとしていた姿が明確に削り出されてくるような。

 挙げればきりがないけど、P.188からの、「「意識は原因について無知である」という単なる否定的な説明に留まることはできない。・・・意識は目的を知っているのである。・・・」。鑿の一閃だ。スピノザ哲学、倫理を実践するためには、考えを進めていかなければならないという決意。『はじめてのスピノザ』(講談社現代新書)p.124では、「意識は行為において何らかの役割は果たせるのです。」というところからより実践へ向けて彫り進められる。

 『はじめてのスピノザ』P.122、「では意識とは何でしょうか。スピノザはこれを「観念の観念」として提起しています。」から、『スピノザー読む人の肖像』P.195「・・・しかし、あらゆる観念の観念が意識であるわけではない。」ドゥルーズの解釈からのさらなる踏み出しによって、より実践的な行為へと導いてくれる。鑿の一閃、揺るぎなき彫刻刀の進み。

 P.346について書くのははやすぎるかもしれないけれど、すんごいんだなあ。「・・・言葉で説明できるのは能動性までである。自由は言葉で説明できる水準には位置していない。・・・だとすれば我々が本当に『エチカ』を理解したと言えるのは、我々自身が『エチカ』の言う意味で能動的に生きて、ある時にふと、「これがスピノザの言っていた自由だ」と感じ得た時であろう。倫理学という実践的なタイトルを与えられたこの書は本当に実践的な書である。スピノザは言葉を用いて、言葉が達し得る限界にまで、我々を連れてきてくれたのである」。そして、國分先生も言葉を尽くして語りつつ、我々の倫理の実践が大事と説く。

 この本をまた形容するなら、『エチカ』を自転車的乗り物と考えると、最初から進むにはギアがなくて重すぎる。5段ギア的である國分先生の本を装着して、進みやすくしながら段々ギアを落としていく。そして『エチカ』をノーギアで漕いでみる。時に坂道ではまたギアを入れて進み、いつかは『エチカ』号と一体になって進む、そのための最強のギアだ、という感じでしょうか。僕なりの形容でしかないですが。

 もう何年も前に『1945年の精神』というDVDを発売するときに、ブレイディみかこさんのご提案により、國分先生の映像を撮るという、ありがたい機会に恵まれた。國分先生のご自宅にお伺いし、撮影する予定だったが、あいにく道路工事の大きな音によってご自宅での撮影は断念。近くの公園での撮影をご提案頂き、そこまで歩いていくことになった。先生はその頃『中動態の世界』の最終校正の時期だったと思う。おぼろげな記憶なのだが、先生はその本の主題について考えることによって、スピノザについてどうしてもわからなかったことがわかるようになった、というようなことをおっしゃっていたように思う。僕には全く分からなかったので、何も言えなかった。僕は話をそらすように、スピノザの「永遠の相の元に」というのはどういうことなんでしょうか、という質問をした。いやあ素人がいきなり思いつきでしてしまった。先生は「それはまたにしましょう」と言ってくれた。それは今説明しても長くなるし、それを問う前に僕にはまだ考えることがあることを、さりげなく教えてくださったのだと思う。

 『エチカー読む人の肖像』P.340の永遠性についてのところ。自身のその時の記憶もあって、この鑿の一閃に感動している。