スピノザの“観念”について考えることなど

 いやはや、2か月間を空けるとホントにいろんなことが起こるなあ。前のブログにもそんな感想を書いたけど、ホントにまあ色々。

 まずはタイトルにしたことについて。このスピノザの『エチカ』にある“観念”ってどんなものなんだろう、と改めて思った。思惟の様態としての観念。延長としての身体、の観念。これは単なる像でもないし、言葉で語れるものでもない。第2部定理49の備考に(『エチカ』畠中尚志訳/岩波文庫P.188~より)、「・・・私は読者に、観念あるいは精神の概念と、我々が表彰する事物の表象像とを、正確に区別すべきことを注意する。それから観念と、我々が事物を表現する言葉とを、区別することが必要である。」とある。その後を読んでもでは観念をどう捉えたら良いのかまだわからない。ドゥルーズの『スピノザ実践の哲学』主要概念集の「観念」の項を読むと、「観念は表象する。しかしわたしたちのみずからのありようとしての観念(身体の観念としての精神)と、みずからのもつ(通常の意味での)もろもろの観念を、区別しなければならない。」とある。このありようとしての観念と、通常の意味での観念の区別はなんとなくわかるんだけど(ホントか?)、それでもでは、そのありようとして観念をどう、自分に感じさせるか。。。これが腑に落ちるというか、体でわかるというか、そうなったら自分が変わってるということかもしれない。國分先生は、パソコンでいうならスピノザと現代のわれわれとはOSが違うと考えられる、と言われていたがそうなんだろうなあ。観念・・・今は観念するしかないか。。。寝かして熟成を待つことにするか。。。

 7月9日には父が亡くなった。母が4月だから後を追うように、ということだろうか。コロナ禍で3年くらい帰省できず、また父は老健、グループホームと施設暮らしで、ゆっくり話しもできなかった。上京して40年以上経つ。盆正月に帰省するレベルで会っていた父がさらに遠のいていた。葬儀後、また東京での生活。父が生きていようと亡くなろうと、こちらでは父不在の生活。だからなのか、まだ実感としてないのかもしれない。しかし、葬儀場が最近始めたという、生ギターでのBGM。リクエストして、父が時々口ずさんでいた『椰子の実』を弾いてもらう。「名もしらーぬー、とおきしーまより なーがれよーる やしーのみひーとつ・・・」。時々歌ってたなあ。少年飛行兵時代に知ったのだろうか。。。それが流れた時は胸に来るものがあった。今、youtubeで聴いてみてやっぱりジーンときてしまった。冥福を祈ります。

 『エチカ』第5部定理22「しかし、神の中にはこのまたかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。」定理23「人間精神は身体と共に完全には破壊されえずに、その中に永遠なるあるものが残存する」もちろんスピノザがいうようにこれは魂が残るとかでは全くない。とはいえ、定理22にもでてくる“観念”は、やはり自分にはまだ謎めいているのであった。