映画「ノッティングヒルの恋人」を観て中動態を感じた

 最近、22年前の映画「ノッティングヒルの恋人」にはまってしまった。ジュリア・ロバーツの演技がホントにすんばらしい、と今さらだけど知った。ヒュー・グラントもはまってるなあ。あまりにも巧い展開で、山あり谷ありを繰り返してクライマックスへ!何度観ても、飢餓感を感じて観てしまうのは、ストーリーが出来すぎ、つまりは省略もありすぎるので、行間を埋め込もうと何度も感情を注入したくなる、とでも言おうか。。。配役もセリフもいいし、本でいう何度も読み返す素敵な1冊にめぐり逢ったようなものである。

 それで最近また観て、ふと気づいたのは、これはある意味、中動態を表現した映画ではなかろうかということ。ヒュー・グラント演じるタッカーはいつも受動的な生き方をしている。妻にも逃げられてしまったきり、特に新たに恋人を求めようともしていない。そんなところに自分のやってる旅行本専門の本屋さんに、ジュリア・ロバーツ演じるハリウッドの世界的に有名な女優アナ・スコットがふらりと現れる。って今更ストーリーを述べてもしょうがないので、まあ色々あるけど、いつも彼女の方が積極的で言い寄られてる。受動的にその行為を受けているのだが、ずっと夢心地。好きになりつつあるのだが、ほんとかどうか半信半疑(多分)。彼女をめぐる出来事で、離れざるを得なくなると彼の心は打ちひしがれる。

 友達みんなと集まった時に、皆に謝る。これまでの僕はまるで元気がなかったけど、やっと立ち直る気になった、なんていうのだ。(ここでの友人アレックスユーモラスな言葉がいい「死人より元気がなかった」だって!)見かけの能動態。けれど、アナがこちらで撮影していると聞くと撮影現場にやっぱり会いに行ってみる。いい感じの出会い。しかしまた打ちひしがれる出来事!その後、アナが本屋に来て、タッカーに何度でも会いたいと言うのに、がつんと打ちのめされてしまった後なので、もう会わない方がいいと言って拒んでしまう。

 再び皆で集まって、タッカーがアナと別れたことを告げると、皆、口々にそりゃ良かったと励ます。ただ一人同居人のスパイクを除いて。けれどその時はまだ自分の気持ちがよくわかっていない。そんな時、友人の一人バーニーが「でも、いいよな、好きな人に言い寄られるなんて」とポロリ。タッカーはじわじわと自分に向き合い始めて、「大変だ、僕は間違ってた」と自分の心の中にアナが好きであることがストンと落ちる。そして、アナのところへみんなでGO!

 説明だけが長くなってしまった。タッカーの受動的な人生。能動性を発揮するときもあるが、何かそれは心なく、見かけの行為。最後の気づきに至る友達との会話が面白いところ。自分は別れることにしたけどいいよね。とみんなにいう。こういう確認を周りに求めるのは、タッカー自身、別れるという積極的な行為が何かおかしいとうすうすはわかってる。みんなも懸命に肯定してくれて、納得しようとする。けれど、スパイクのなんてこった、という言葉や、バーニーのポロリの本音がタッカーの心にじわじわと効いてくる。

 優しい心遣いの肯定。そこにスパイクの言葉の一撃。バーニーの次元の違う本音の言葉。受動的な能動が嘘と気づき、自分が心から好きであることが自分の中にやっと落ち着き、確信に至るという過程。

 自分の心の中に確信が芽生えての行為、というのは中動態といえないかしら。ついでに、友人たちとブラックジョーク交えての会話もなんかオープンダイアローグ的でないかしら、と思ってしまった。(いやオープンダイアローグというのは聞きかじっただけだから、勝手に想像して楽しんでます。)

 まあとにかく、ホントにいい映画だと思いました。