原理という言葉

 年も変わったが、コロナの猛威は変わらず。休日もほぼ外出しない日が続いている。これが日常になってしまった。

 地味な日常だからだろうか、前回、前々回と“一義性”という言葉が気になっていたことを書いたのだけど、今度は頭に“原理”という言葉が響いてきた。しかし何かの言葉が気になるというのは、僕の癖かもしれない。それを改めて考えたいという状態になっているのは間違いないが。Weblio辞書では、「げん‐り【原理】1 事物・事象が依拠する根本法則。基本法則。「てこの原理」「民主主義の原理」2 哲学で、他のものを規定するが、それ自身は他に依存しない根本的、根源的なもの。」とあった。と、一応調べてみるけど、意味を探るというより、なんというか、自分が動いてしまうのはどんな原理からなんだろうね、と考えてしまったからだろう。世間は、コロナに対する政策の拙さで政府への批判がかなり強くなっている。僕も批判する方である。スマホゲームはやらない。消費行動は地味だと思う。車には興味がない。さらに脇道にそれるが、バブル時代に思ったことだけれど、車の広告を見るにつけ、ただのマイナーチェンジでやたと新車が出るが、これは意味があるんだろうか、と不思議がったことを覚えている。いや、つまり、そりゃいかんよねと政策を批判する、広告は怪しいと思う、そんなに作ってどうすんのとも思う、流行りのゲームも面倒だ。しかし、twitterでフォローしてる方の考えにはなるほどと膝を打ち、自分もそう思っていたようになる。色々な現象に反応しているわけだけれど、ふと、自分の行動とか感情には何か根拠のようなものがあるんだろうか、と。年を取ったが、何を根拠に動いているのかあんまり考えてないのだろうなと気づいてしまった。

 会社の経理もしているので、複式簿記の途方もない仕組みにいつも驚く。この複式簿記は、イタリア商人が工夫に工夫を重ねて今に至る、というような本を読んだけれど、ここには知恵の結集みたいなものがあると思うんだが、商人たちがなんとか合理的に商売を見られんだろうかという基本的なものが、こういうものを実現させたんだろうな。商人根性が行動原理だろうか。

 そういえば、資本主義を内面化してしまう危険性は白井聡氏が「武器としての資本論」で書いていたと思うが、これを内面化すると、それが行動原理になるのだろう。生まれた時が高度成長期で、競争に勝つといいことあるよ、という比較優位が生き残ると教え込まれる環境で育ったものが、なかなかそれを時代的なものだと意識化することは難しい。

 あれやこれやと考えて、自分はやはり資本主義を内面化してしまい、外部の事象にも、それを基本として反応して衝動的に動いているだけかもしれない。スピノザ曰く、欲望を意識するが、その欲望の原因を人は知らないと。欲望が原因ではなく、それは結果だということだ。そう欲望させてしまうものは何なのだろう。その根本原理は。資本主義経済原理にどっぷりか・・・。その原理では世界はもはや無理だと思うけれど。無意識的に内面化してたらなあ。

 僕は公助、共助、自助の順をお願いしたいが、これを自分の原理と内面化することはできるのだろうか・・・。でも、少しずつ時代は変わっていくのだろう。『人新生の資本論』(斎藤幸平著)のまさに目の覚めるような資本主義批判。これが既に16万部という!状況だもの!