やっぱりちょっと違いますかね。一義性について。といいつつ

 いつもの理解不足をまた見つけたので、忘れないうちに書いておこう。

『ドゥルーズ没後10年、入門のために』(河出書房新社)の中の<はじめての読者のためのドゥルーズ入門>(松本潤一郎)を読んでみると、「で、なんで存在あるいは実在性としての神が唯一あるいは一義的なのかというと、そうでないと存在が不平等になってしまうわけですよね。・・・存在の一義性というのは、そういうかたちでこの世に存在しているすべてのものが自らを表現するとき現れてくる唯一性なんです。この唯一性がないと、各個体それぞれを肯定することができなくなってしまう。それぞれが唯一という意味で、存在において平等であると。」とあった。神という実体の一義性はもちろん、そして、その表現としての様態的変状であるそれぞれが存在の一義性であること、かな。。。前提として唯一の実体が表現し実体の表現されたものとしての存在の一義性。。。よって先月引用した「それぞれの存在に卓越性もヒエラルキーもない」ということになるのかしら。いやーまた勝手な解釈で怪しいなあ。

いいじゃないの、実体の一義性から出てくるあらゆる存在は当然ながら、差別はない、ということで、そういうことにしてもうネジがゆるんだ蓋をしておこう。

 まてよ、蓋をする前に、なんでそんなにそもそも“存在の一義性”がなんとなく気になっていたのか、を思い出した。そうそう、世界に存在するものに差別などないこと、平たくいうと人間には差別などない、ということの、その根拠となる理由を探していたのだった。人間は平等だ。というときに、なんで?という問いに自分ならどういう理由をつけると納得するのか、を自分に聞きたくなったということだった。基本的人権とかの道徳的な規範以前になんらかの理屈が欲しいと思ったんだな。そういうことから、“存在の一義性”という言葉を見つけてから、なんとなーく、理由を見つけられそうな、その雰囲気を感じ取った、取りたい、取れるかもと思った、ということだろう。

 だから、唯一の実体(まずはその実体を僕が認めるところから始まるが)の様態的変状である各存在が当然差別などない、ということで良いのだけれど、気になった一義性という言葉には、それを強く思える理由が見つけられるかな、と思ってネットで探っていったということだった。そうすると、先月のブログに引用した、「・・・実体が、もろもろの様態の力の度に即して、それらの様態のすべてによって等しく表現される限り、あらゆるヒエラルキー、あらゆる卓越性は否定されるのだ」(『差異と反復』G・ドゥルーズ)に出会うことになって、おお、いいね!となったわけだ。

なんで、いいね!だったかというと、僕なりに思う理由のためのすんばらしい言葉だったのでそう思ったんだね。

 “存在の一義性”についてのあれやこれやに思いを巡らすことではなかったのだと気づいた今日であった。つまりはその言葉についての不理解についてはやっぱりとりあえず蓋をしておこう、ということでした。