知人が母国へ帰る

 10月16日金曜日に、高次脳機能障害の知人が母国へ帰った。彼は20年くらい前に日本にやってきて、その後脳腫瘍と不整脈で意識不明となって手術。そして10年くらい前に東京の病院に通うために上京した。私が知り合ったのは世田谷区の高次脳機能障害の方のガイドヘルパー養成講座の実習の現場。彼が上京してから3,4年後であろうか。その時のことは記憶にある。小声で日本語をしゃべる彫りの深い優しい感じの男性。買い物のお手伝いということでユニクロで、ズボンを買った。彼は腿あたりにポケットのあるモノを選んだ。薬を入れるので、ということであった。

 それから2年位たって、当時時々手伝っていた事業所のスタッフから移動支援の引き継ぎということで、彼に再び会う。久しぶり!彼は覚えてないかもしれなかったが、私は知っているので緊張感はなかった。それからずっと彼の移動支援をしていた。6年くらいだろうか。彼の場合は、歩けるし、出かけるところに制限はないので色々なところに行った。東京はホントに色々なところがあり、かつ電車で移動出来て、自分でも初めて行ったところもたくさんある。観光名所、商店街、美術館やら博物館、公園、母国料理を食べに行ったり、中華街に行ってみたり。(もし地方で移動支援となるとこれはなかなか大変だろうと思う。利用者に身体的制限がなくとも、候補がない、交通機関がないということがつらいところだ。車の移動もいいのかな?よくわからない。)障害のせいかもしれない、性格なのかもしれないが、彼の弱気のところ、心配性のところ、こだわるところなどなど、「もー、そんなの気にしなくていいんだよ」などと最初は思っていたが、しばらくして、そういう人だもんねと、こちらが慣れた。そんな風に思うこちらの方の性格もあるわけだ。

 高次脳機能障害の方の移動支援は利用者の障害が千差万別でもあるので、これが正しい、というような支援の方法はなく、支援者側の個性により、自ずと変わってくるように思う。その障害についての最低限の基礎知識の上で、後は利用者と支援者の個性によって関係性が変わるのだろう。と考えているのだが、これまた支援への考えは人によるのだろう、と思う。この「支援方法は人による」、という考えでいいのかどうかもよくわからないが。

 最近、世田谷区の就労支援B型作業所ハーモニーにおられる新澤さん(直接の知り合いではない)という方(「幻聴妄想かるた」を企画、発刊された方)のTwitterで知った「急に具合が悪くなる」(宮野真生子、磯野真穂著 晶文社刊)を読んだ。その中に「関係性を作り上げるとは、握手して立ち止まることでも、受け止めることでもなく、運動のラインを描き続けながら、ともに世界を通り抜け、その動きの中で、互いによって心地よい言葉や身振りを見つけ出し、それを踏み跡として、次の一歩を踏み出してゆく。」という文章がある。素敵な言葉だ。なんだかじーんときた。

 母国へ帰った彼との支援関係とはそんな感じだったように思える。(そのような関係だったように思っていいよね、と思わせてくれる圧倒的に緻密で具体的で、考えに考えて紡ぎだされた言葉たち)

 帰ると決めたその頃から、彼との長い付き合いからじんわりとした感情が湧いてきた。利用者と支援者という関係ではあったが、なんとなく寂しさのような感情も出てくるもんだ、と気づいた。母国で思い切り自分の言葉で話して、楽しく生きることを祈りつつ。