デヴィッド・グレーバーが亡くなった

 先週、「ブルシット・ジョブ」を読み、訳者、酒井隆史氏の解説の中に、「・・・『アナーキスト人類学のための断章』(以文社、2006年)は、グレーバーにとって3番目の著作であるが、・・・みずみずしくざっくばらん、かつ刺激にとんだすばらしい著作である。最初にこれを読んだときのおどろきを忘れない。」とあり、とても読みたくなって早速手に入れた。読み進めながら、ああデヴィッド・グレーバー、なんて素敵な人だと感激していたところだった。前衛と称する(される?)人々の高踏理論などは不要であり、むしろ低理論とでもいうべきものが大切なんだ、などなど。行動力と知性、そして人を思いやるやさしさ。写真を見て益々そう思っていた。優しい目だなあと。そんな風に思っていたところで、twitterで彼の訃報を知る。ええっ!ホントに!?信じられない。嘘であってくれと思った。1年くらいまえから、英語もよくわからんのに唯一海外の人でフォローしていた人だった。彼の思想、活動に関心があった。その彼が9月2日、59歳で亡くなった。悲しすぎる。とても輝いている希望の灯だったのに。本当に残念だ。

 途中で止めていた「負債論」を最初から読み始める。読み始めてよかった。前の時は、あんまり分厚い本なのでビビって、ページをめくることに意義があると思っているような不純な読み方だった。読み返してみると、第1章から意味を汲み取っていなかったことが分かった。貨幣の通説ちゃぶ台返しがすぐに始まっていたのだ!今度は厚さにビビらず、読み終える先も考えず、目の前のページに専念しながら進むことにする。

 高踏理論は不要、というグレーバー。身体を抜きにしたあーでもない、こーでもないという言説は山のように溢れている。ただの批判や批評、感想、印象、溢れかえる形容詞。そんな日常で毎日揺れ動く自分。“海に放り出されたコルク”(「GDアベセデール」の中でGDの友達とのやり取りで友達が言った言葉、だったかしら)のように。さてさてどんな活動をすれば良いのだろうか?考えることと活動が繋がっていくのが良いのだが・・・。

 ここでまた「エチカ」に戻る。「第4部定理14 善および悪の真の認識は、それが真であるというだけでは、いかなる感情も抑制しえない。ただそれば感情として見られる限りにおいてのみ感情を抑制しうる。」この証明がまたいいんだ。「感情とはある観念ー精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である。このゆえに感情は真なるものの現在によって除去されるいかなる積極的なものも有しない。・・・しかしそれが感情である限り、・・・その限りおいてのみそれは感情を抑制しうるであろう、・・・」 まさに吹き抜ける風!によって地に着陸できるような気持になる。世界(自然)の内に生きる個物である限り、身体を抜きにして語ることには、どこか表面を滑る感じがある、ように思う。

 そんなことを感じつつ、ふと日本の消費税という現実にある制度を考える。多分、的を得ていない表現だが、これは虚構としての悪が現実の脅威となって影響を及ぼしている、ようなもんだと思う。うーんちょっと違うか。頭で考えてしまった理屈だけで、身体性を考慮に入れていない最悪の税制だ、とでも言おうか(日本の場合)。

 グレーバーならなんと言うんだろう。RIP。