『スピノザと表現の問題』を読み始めた

 外出を控えるようになって一か月が経つ。録画した映画を観る、本を読む、酒を飲む、現政権への不満、などが確実に増えてきた。そんな状況なのでネットや小さな書店で本を買い、積読状況にも拍車がかかる。

 積読の中から、ふと思い立って『スピノザと表現の問題』(ジル・ドゥルーズ著/法政大学出版)という本のホコリを払って手にした。ずっと前に古本屋さんで見つけて買ってとてもきれいで喜んだもの。一度チャレンジして挫折したまま眠っていたのであった。いわゆる難解な本で、最近はあまり読まれてないのではなかろうか。文庫も出ていないので高いし。アマゾンに載ってるレビューもずっと一つだけ。そこには「・・・しかしどのような興味の方向から読むにせよ、この著作を読み通すことは、内容の難解さゆえ、多分に苦痛を伴うだろう。」と評されている。確かに。以前読もうと思ってすぐにやめた。いや進めなかった。何が書いてあるのかわからん状態であった。ただ、なんかすごいことが書いてあるような気がしてはいた。

 今回手にした時もドキドキして、読めるんかいなという緊張感があった。ずっと躊躇していたのでなおさらである。以前と違うことといえば『エチカ』を何度も読み返している、ということだろうか。さて、開いて読み始めた。序論に感動することができた。序論最後の文「証明なしに諸属性を理解することは不可能である。証明は不可視なものの表示であり、また自らを表示するものが注ぐ視線である。証明とはそれによって我々が知覚する精神の目であると、スピノザが主張するのはこの意味においてである」というところは、前に『スピノザ よく生きるための哲学』のブログの時に気にしていたところであるので、文脈は違うけれどこのドゥルーズの序論の締めの言葉で前に進む勇気を持った。

 まだ読み終えておらず、なんとか16章まで来た。あと4章。2行読んで眠ることも多い。相変わらず何を言ってるのかわからんところが山のよう。これで読んだとは到底言えないかもしれない。

 この本を読み始めて思ったのだが、手にして始まってしまった冒険のようだと感じた。進めるかどうか全くわからない、道なき道。理解できるのかわからない、未知の濃密な文章の森。手探り状態。始まると、まあぶつかるぶつかる、進路を邪魔する岩の数々。では岩とは何か。そこは自分にはわからないところ、ということである。思いめぐらせもしないし、考えることもできない。岩を砕く道具もない状態。知識もなく、思考力(あるのかわからない)も歯が立たないというところ。といいつつ、この岩々は乗り越えられないけれど、本がふさいでいるわけではないので脇を通ることにして、手探りを続けている。

 そして今のところ冒険は続いている。ここまでくると一応結論までは目を通したいなあ。行けるのかわかりません。

 今のところの感想しか言えないけれど、ドゥルーズのこの本は、特に『エチカ』を徹底的に論じているので、『エチカ』を読んでいて、僕みたいなものがここはどういうことだろう?と思っているところは当然隅々まで考えている。なんでそうなのかをとことん追求している。かつ、そこにドゥルーズの考えが現れている(ここは國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』という本が詳細に教えてくれている)、と思う。というのは『エチカ』の追求とそこに加わったドゥルーズの考えというのが、僕にははっきり分けることさえできないので。トホホですね。

 第16章「倫理的世界観」の締めの言葉がいいです。「純粋な肯定の哲学、『エティカ』はこのような肯定に対応する喜びの哲学でもある。」この章はなんとなくですが、ドゥルーズが他の章以上に熱く語ってる気がしてます。気のせいかな。数々の岩にぶつかりパンチドランカー状態なのであやしい。

 いやはや、間違いなく面白いはず!なんだけど歯が立たない岩々の数々。『ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル』をまた観るとしますか。