『ドゥルーズ 流動の哲学』を読みつつ・・・

 宇野邦一著『ドゥルーズ 流動の哲学』(講談社学術文庫)を読んでいる(途中ですが)。面白いです。難しいドゥルーズの哲学に歯が立たない者の強力な助けになります。最初の方に「何を構造主義として認めるか」について触れていたので、これを読んでみた(『ドゥルーズ・コレクションⅠ』(河出文庫)にある)。この文章も僕にはとても難しいので、多分とんちんかんな感想と思うんだが、静的な構造が考えられるとして、それがどう現れるのか、現れるには何が考えられなければならない、みたいなことが(も)書かれてるんかな・・・。勝手にそう思っているだけで、確認するための読み返しは難しいので躊躇してます。で、想像を膨らませて、ドゥルーズさんは、哲学が絵に描いた餅とならず(その絵も中々鑑賞さえ難しいのですが)、生きるこの現実にどう接続できるのか、接続できてなんぼじゃ、みたいなことを(も)考えてたのかな。今度読み直したら、今の感想に赤面するんだろうなあ。

 しかし、哲学解説本は世の中にはたくさんあるけど、僕にはつまらないものだ。この哲学者はこんなことを考えていた、あの哲学者はこうだった、みたいなのをを読んでも、読んでる自分は変わらない。知識が多少増えるかもしれないけれど、あの哲学はこうで、あの哲学があーで、みたいなことを語るのでは、語る自分が変わらないではないか、とようやく思ってきた。そりゃ退屈だ。しかし、自分が変わる、変わりつつある、変わった、ということを当の自分は意識することができるのかな。その意識の在り方を変える、観察している(と思っている)自分の観察の仕方を変えるのが重要なポイントだと思うが。世の中の自己啓発本というのは、全く読んだことがないのですが、どんな指南をしてるのかな。それとは違うけど、マインドフルネスはその意識の変化を促すんだろう。できてませんが。とはいえ、変わろうとする意識は必要なんだろう。千葉雅也氏の『勉強の哲学』がついに文春文庫となって出た。これは習慣に無意識な自分を変えて、楽しく生きる方法を説く活気的な本だ、と思う。実践の書だ。

 実践には頭と身体が伴う。身体が伴うということが重要だ。というと、またどーしてもスピノザを考える。『エチカ』は実践の書なので、『エチカ』は心身平行論の哲学で、デカルトに異を唱えたもので、また、スピノザの神に対する考えが当時のあらゆる信仰者から非難を浴び、200年位経ってようやく脚光を浴び始めた、と解説するだけでは意味がない。神=自然=実体というのは途方もない思考だ。神=自然=実体は、無限の属性で表現されそれが変状し、個々の存在として現れる。人は、その存在を思惟と延長という属性によって知る。人も思惟と延長の属性の変状だ。思惟属性の変状である観念と、延長属性の変状である身体は、存在というものをそれぞれの属性によって表現したものだから、おんなじものを別表現してるに過ぎない。だから存在そのものとして捉える。僕が書くとどーもしつこいだけでわかりづらいが、なんかすごくないですか。我々が存在する前に世界はある、つまりは我々が世界内で単に存在として生きている、ということは紛れもない事実としてあることが、大前提になっている。この前提を受け入れないわけにはいかない。そしてこの事実を受け入れることから考えていったらこうなるし、こう生きるのが気持ちいいんじゃないか、というのが『エチカ』の実践のすすめ。我々が世界内存在であることを受け入れた時に、ではどう生きるかという(頭で、例えば世界をコントロールできる、と考えても世界内存在なのだからできるわけない、というのも前提から出てくるし、つまりは超越的にはなれないということも)。これは古びない問題だ。

 てなことを考えると、飛びますが、例えば資本主義というのは無理がある、ので見直さねばならない、と結論される・・・のではなかろーか、などなども哲学の実践的思考であろうか。

 今回は、ではなかろーか的なことばかりで、まだるっこしいです。まださまよってます。