「精神をあたかも今存在し始めたかのように・・・」

 最近ふと思ったのは、「〇〇せねばならない」「〇〇あるべきだ」的な思考回路で考えていることがほとんどではなかろうか、ということ。もともと考えるのは苦手で、頭の中に言葉が浮かんで、考るというような運動になったのは高校時代以降ではなかろうかと思う。小、中学時代は親から言われるままに生きていたようで(多少の反発もあったとは思うが)、ぼんやり日々過ごしていた。親は子に、世の中はこうなんだから、こうしなさい的なことを言い続ける。こちらは「世の中のこう」というものが正解なんだろうから、その解を出していくのが普通、というような日々。例えばテストとは正解があるもので、その正解を記入すれば良く、とりわけ中間、期末テストは、正解もかなり予測可能となって、〇を得る可能性が高くなる。それで正解を書いて点が良ければそれで日々良しということで済む。つまり、世の中全般には正しいことがあって、それを表現したり、行動するのが良いというように育つ。こうあるのが良い、こうあるべきだ、的なあり方が自然になってくる。

 高校時代になると大人びた友達も出てきて、ぼんやりなことに気づかされる。なので、今までは何だったんだ!となる。ここで、自分について考えるようになるのだ。「もっと自分とはなにか考えなければならない」「もっと別の行動をとるべきだ」という思いから、過去に決別し、それまでの友達とも離れ、親には反発し、となってくる。

 しかし、もともとどうにも考えるということが苦手なので、考え「ねばならない」、こう考える「べきだ」が基本的な駆動力となっている。ぼんやり時代も、反発時代も、「ねばならない」が基調だ。とはいえ反発時代は考えるのがやっぱり苦手なのでぼんやり遊び呆けているが。

 というようなことがつらつら浮かんできたのだが、この「ねばならい」的思考は染み込んでおり、今でもどこかに正解があってそれを探す、見出す、そして世の中の正解に基づいて行動する、という習慣から抜け出てないのではなかろうか、と思う。

 話は少々それるが、いわゆるPOSデータなどの分析によって、ユーザーニーズを素早く的確に把握し、一刻も早くユーザーの元に届ける、というような仕組みとは、ユーザーのニーズという正解があって、それを素早く見出し、正解を持つ人を満足させるというこものなのかな。とすると、これも一種の「ねばならない」的なものと言えるような気もする。こういうパターンは実は多いのか?視聴者満足度の高い番組を提供するのが一番で、それがTV局の最も気にする視聴率を上げること、とかも、似たような志向かしら。

 しかし、世の中にも、ユーザーの中にも、視聴者の中にも正解はないように思うが・・・。余談的だが、ユーザーニーズ、視聴者ニーズというのを目指すのは、エントロピーが増大してあんまし良くないんでないか。

 だから、好きにやろうよ、と言いたいところだが、そういう本人が「ねばならない」的思考だから、「好きに」というのが実は難しい。それにしてもしかし、「ねばならない」的な思考からの解放というのはあるんかな。

 「三つのエコロジー」(フェリックス・ガタリ著 平凡社ライブラリー)という本の中に動的編成(agencement)という言葉がある。僕の引用はいいかげんなので信用ならないが、主体とは動的編成されるもので確固たるものがあるというわけではない、とのこと?つまりは「ねばならない」思考も出てくれば、「そうしたい」という思考も、どだい区別つかんものとして混在してるのかな・・・。心の動きをマインドフルに眺めるとなんかわかるかしら。

 スピノザ「エチカ」第5部定理31の備考に「・・・精神をあたかも今存在し始めたかのように、またあたかも今物を永遠の相のもとに認識し始めたかのように考察するであろう、ということである。」とある。ここは精神が物を永遠の相のもとに考える限り永遠であることを、より一層理解されるには、このように考えるといいよ、という部分。いやーこれはスピノザは体感してるので、さらっと書いてるが、個人的にはとても興味深いところ。あたかも今存在し始めたかのようにある精神・・・。ああ、「ねばならい」「あるべきだ」思考からの解放の瞬間・・・かもしれない。