『居るのはつらいよ』(東畑開人著 医学書院)から色々

『居るのはつらいよ』はセラピスト東畑氏の沖縄時代の精神障害者向けデイサービスの日々を軽妙な文章で描いて、あっという間に読み終わるほどの面白さ。利用者や職員との交流は実に味わい深いので、読んだ人たちからいっぱい感想が出てくると思う。それは置いといて、終盤あたりに出る「会計の声」がぐっときた。なんといってもつまりは仕事=お金という現実!サービスはお金という尺度によって全て計られるのであった!という現実はのっぴきならない、というところ。いやはやそうだよなあ。セラピーもカウンセリングもデイサービスも何もかも1時間いくらだったりするわけで。これが資本主義的システムなんで、致し方なし!これしてなんぼ、これされてなんぼという、サービス供給者も需要者も気づこうが気づくまいがレジがチンチンなってるという。しかし、そうだから良いというのもあるんだろうなあ。介助という仕事も恐ろしく細かい単価制度ではあるが、サービスを金額換算する。頼むほうも頼まれる方もサービスへの対価ということだから、情緒的なところ、人間的なところなど余計なことを考える必要がない(少なくなる)。こりゃ中々デジタルな感じですっきりしてるわけです。なんだけれどもそう割り切れないんじゃないの?というか、割り切れない何かが多分ある。いやだからこそあえて割り切る仕組なんじゃろ?と思いはぐるぐる回っている。

 ここで話が飛ぶのだが、仕組みや制度は何を目的としてるのかなと考える。資本主義はお金を使ってお金を生み出す仕組み。あらゆるものをお金という価値で計る仕組みで、お金を手に入れ、お金を使って何かを得るためにある。だものでこの仕組みは、アナログな存在としての人間とか自然とかには関係ない。だから多分無理がある(人間も自然も疎外され、労働力や資源、不動産などとなる)。ここからはさらに無茶な発想と思うが、介護サービスにおけるあの途方もない単価制度や、やたらに細かい制度は何のためにあるのだろう。これは管理する、という考えだからろう。もちろん、国民から徴収した保険料や税金を無駄に使わせないために管理せねばということだろうが。しかし、このようなサービスは人格も関わる人間労働なので、中々単価制度になじまない部分もあると思う。だからこの単価制度を含めた制度は人間を疎外してるんではなかろーかと(この言い方にはちょいと無理があるか)。いやだからあえて人間を考える必要のないすっきりデジタルな単価制度なんよ・・・またぐるぐる回っている。(とはいえ、途方もない事務作業が生じることは間違いなかろう)

 先日、新聞に掲載されていた記事をネットで読んで僕も感動した。世田谷区桜丘中学校の校長先生の記事。この中学は校則がない!チャイムもない!校則がないなんて!!!!チャイムもないなんて!!!!生徒も先生ものびのび生活している。なんてすごいんだ。これを読むと、校則なるものは倒錯しているんだなと思う。規則のための規則。管理のための管理。生存し共存し考えることを学ぶということには本質的には関係がない。

 さらにぶっ飛ぶが、ここでスピノザ「エチカ」の定理を考える。第一部定理16:「神の本性の必然性から多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ」(神=唯一の実体=自然を忘れないように読んでも難しい)証明部分には、省略するけど「・・・物の定義がより多くの実在性を表現するにつれ、言いかえれば定義された物の本質がより多くの実在性を含むにつれて、それだけ多くの特質を結論する・・・」いやこれだけ読んでも何がなんやら全然わかりましぇん。スピノザはこの例にどこかで円の定義について書いていたが、わからないのでここで無茶苦茶な発想、人間を定義すると(誰がする?というのがあるか)して、その定義が実在性を表現するにつれそれだけ多くの特質を結論する。確かに、そうすると人間について色んなことを見出すことになる。えーい、何をこじつけたいかというと、つまり上述の、仕組みや制度、規則は実在性を定義してないので、自然の一部としての人間にとっては無理筋だったり、空虚で倒錯的なところがあるよなあ、というところかしら。(いや、こりゃ大上段に振りかぶってみたけどこじつけ過ぎだと思う)