プールで泳ぐのが習慣となった。ずいぶん昔、どこかのフィットネスクラブに通っていたころ、インストラクターがなんとも優雅に泳いでいることに衝撃を受けた。クロールでゆっくりと、今表現するなら、ワンストローク、ワンキック。バシャバシャするバタ足は全くなし、水しぶきほぼ無し。4拍左右の息継ぎ。潜水艦が浮上して静かに進んでいる、または、イルカのようなのが、超ゆっくり進んでいるようなイメージ(昔のことなのでイメージふくらみ過ぎたかな)。
それ以来、マラソンのように、いや歩くように延々休みなしで泳ぎたいと思って、それをイメージしながら泳ぐようにした。これが初めのころ難しかった。バタ足から解放されるために、手を伸ばしてぷかぷか浮かぶことから始めて、足は動かさないで、腕をボートのオールのつもりで前へ進むようにして。。。その感覚がなじんだら、足は腕のタイミングと意識して1回ずつ動かすようにしてみる・・・。それからほぼ10数年、まだまだぎこちないけど歩く感じで泳いでます。
幼いころの補助輪なしの自転車に乗る練習を思い出した。多分、補助輪付き自転車に乗った記憶がないから、姉の使っていた24インチくらいの大人用で練習するしかなく・・・、まあできないできない。足が地に着いてないもんだから、倒れるは、田んぼに突っ込むは、痛い怖いで、何とか乗れるようになったのは、なぜだかよくわからない。
さてずいぶん前のことだが、自分の子供には子供用自転車があって。補助輪がついていた。いつの日か、公園で補助輪外して自転車乗りの練習をすることになった。バランスを取りつつ、足をペダルに乗せてこいでみる、いざとなると足が着いて倒れるのを防ぐ、というの、ああ、なんて素敵な練習方法なんだ。ものの20分もしないうちに乗れるようになったではないか!僕もこんな練習をしたかったなあ。子供はその後一輪車にまで乗るようになり・・・いつの間にか大人になった。
そんなことを日曜の朝、泳いだ後につらつらと思い出した。スピノザは、実体は必然の連鎖で動いているわけだから、その中にある人間の自由を認めてない。自由と思うのは、あらゆる連鎖とその法則、その及ぼす結果を全て把握できる能力がないからだ。人間が自由か自由でないかの論議はよくわからない。でも、自転車を、一輪車を自在に乗りこなすとか、思ったように泳ぐ(僕はまだぎこちないです)とか、それは重力や浮力や推進力の法則を体が身につけて利用できるようになったということで、それが自由(自在)ってことでしょーか?とすると思考の自由とはどうなったときなんだろうにゃ。