『なぜ今、仏教なのか』を読んで

最近『なぜ今、仏教なのか』(ロバート・ライト著 早川書房)を読んでみた。マインドフルネスや瞑想についての本をいくつか読んでいたけれど、これは指導書ではなくて、本人の瞑想体験と瞑想についての論考。

感想の切れ端がまだ記憶にあるうちに。

思考は感情に乗っかている。一貫した自己なんてなくてその場その場に応じて思考しているだけで、いわゆる統一された自己からのぶれない思考はないという。直観的に、無意識的に、好意を感じてるなら、肯定的思考になるし、嫌悪が先にあれば、正しくとも否定的になる、というような。まあ好きな人が言えばけっこうなんでもOKだし、嫌いな人がいえば同じことでもだめだしする、みたいな、つまり思考は、どんなに小さな判断でも、そのような感情がその思考をさせているのだと。これはなるほどと思った。

そしてその思考にとりつく感情に気づくのがマインドフルネス瞑想の1歩という。

よく、指南書には瞑想を初めたらまずは呼吸に集中する、とある。気が散ってはまた呼吸に意識を戻し、また気が散っては呼吸に意識を戻すようにと書いてあるように思うけれど、なんでそうするのかあまり読み込んでないせいもあってよくわからなかった。

マインドフルネスはそもそも日ごろの思考の元となっている大小様々な感情に気づけるようにすることだ、という説明は、瞑想に臨むにあたり方向性のようなものが示されてるように思って腑に落ちた。

ということで、挫折しまくっている瞑想をまた始めるかと。

いやこれがですね、とても難しいのです。瞑想の前に酩酊で寝てしまうのですよ。

なのでちょっとだけ感想を書いただけに終わるという。

もひとつ。なんでもスピノザにつなげることもないけれど、仏教における因果は、実体の属性の様態的変状の連鎖としての原因と結果、思考のベースとなる感情は受動感情、マインドフルネスの目は第三種の認識、などなど考えてみたくなりました。

では実体は空、というのは違うと思うので止めます。