「エチカ」から実践ということを考える

何度も読み返しても気づくことがあるのは、読む側の意識が変わるからだろう。「エチカ」は「エチカ」でずっとそこにあるので。いやはや、このような書物に出会えたことは本当に良かったと思う。

素人が研究もせずに読むものだから、わからないことは考えを寝かすしかないし、勘違いはいつかまた読み直して気づくかもしれないがそのまま、だから確信的に体感するのは途方もなく遅くなる。しかし、気をつけなければならないのは、この「エチカ」は、時々哲学入門などにも紹介されてるような概要を知っただけでは全く意味もないということだ。

ドゥルーズさんが『スピノザ 実践の哲学』のタイトル通り、「エチカ」は実践するものとしてある。日々を生活するとき、色々考えるとき、「エチカ」を実践することがスピノザの願いなので。

第4部の善と悪をめぐる定理かから、進み、定理26に来た。この時、“認識する”ということばに引っかかってしまった。僕はなんだか、認識する、ということをぼんやり描いていたのだけど、これまた、ぼんやり描いてると中々わからない。

ぼんやりしてると「・・・そして、精神は、認識に役立つものしか自己に有益であると判断しない」という定理後半を読んでも、認識するって、そして認識に役立つものって何よ?となる。証明部分、「・・・存在に固執する力、・・・与えられた本性から必然的に生ずることになる力・・・。ところで理性の本質は明瞭判然と認識する限りにおける我々の精神にほかならない」。力・・・=認識も運動なんだな。⇒運動としての認識が妨げられるものは有益じゃないということ。スピノザはおのおのの属性によって表現される仕方は違うけど存在は存在としてある。思惟も延長も存在の各属性の現れだ。認識が妨げられるのは身体的な理由もあるということだ。物理的な、そして心的な影響、食べ物、有害な物質、有害な音、有害なにおい、暴力、貧困、悪魔的な思考、などなど。それらが具体的に身体と認識を妨げる。だからそれらから離れ、無くすように努め、認識できる環境を作るということだ。これがひとつの実践だと気づく。