マーケティング資本主義などなど

 最近何かの本か記事で、マーケティング資本主義ということが書いてあったような。私の使い方が正しいのかもよくわからずに勝手に思うことなど。産業資本主義の後、ものが溢れて需要が滞るのを、適当な言葉で煽って消費を促進するという、資本主義ということらしい(こんな意味でいいのかな?)。高度成長期もとっくに終わった後はずっとそれ。広告、キャッチコピーで、今これを買わなきゃ乗り遅れる的なノリで強迫観念を増長させて消費に走らせる。マスメディアも煽る煽る。次々とほとんど中身は変わらない商品が発売されてどんどん買わされる。まあ必要ないものを買わせないと資本主義としてはやってられない。20年以上前か、ある会社でビデオの発売元の宣伝担当としていた時、販売元との打ち合わせで、自分でコピーを作っておきながら、担当者の方に「完全に言葉がインフレ起こしてます」など臆面もなく言った記憶がある。その状況はあらゆるところでさらに加速し拡大しとどまることを知らない。金融資本主義もわけのわからん金融商品を作って売りまくる。中身は空疎。必要ないけどどんどん資源を使うし、加工もするから、そりゃ気候変動も起こりますがな。

 コロナで現政権が空疎なものだとあらわになった。これはマーケティング政治といえるか。言葉だけは踊る、一見華々しいけど、中身ゼロ、みたいな。一応理念があるようなフリはする(政治なんで)けど、理念もキャッチコピーみたいなもんだとばれてしまった。多分ずっと前から景気も悪かったのに、景気が良いフリをしていた。古い産業界が力を持ち、彼らのみを生かすことに注力した。裾野が途方もなく広いのでそれは必要であったのだろう。それにしてもそれ以外はほぼ何もしてないといえる。コロナはそんな政権の超近視眼的で、何も起こさなかったことを明らかにしてしまったようだ。

 などなどシャボン玉のように言葉が浮かぶ。

 最近、「武器としての資本論」(白井聡著 東洋経済新報社)を読んだら、資本主義の内面化、ということが書いてあった。我々の思考が資本主義的な思考であること、それが歴史的なことであること、つまり相対化する視点が必要であり、可能であることを教えてくれる。

 脈絡なく、シャボン玉的言葉が浮かぶが、他に思ったのは、スピノザ「エチカ」の共通概念ということについて。ドゥルーズが「スピノザ 実践の哲学」のなかに、「・・・その意味は数学的というよりむしろ生物学的であり、存在する体どうしの適合・一致や構成的統一の関係を表現している・・・」とあった。これは素敵だ。共通概念は人とモノ、人と人にも適用される概念。ケアの仕事も共通概念というところからも何か考えられる気がしないでもない。

 シャボン玉のような言葉が空疎でなく、体がそう考えて、それが浸透し、これから何かの実践として心身が動き出す、ということになるのだろうか・・・。よくわからん言葉ですね。

 猛暑により蒸発してしまう可能性は大でありますが。